優美な死骸
ぬぴ様に教えて頂いて、わたしの大切な価値観になった2つの作品
「11人いる!」(原作:萩尾望都先生)
「Hedwig and the Angry Inch」(ブロードウェイミュージカルの映画版)
前者はわたしが性的事件の被害者になり、
「女性に生まれたというだけで理不尽な暴力に曝された」
怒りと悲しみで膨満しきっていた時に教えてもらいました。
わたしは幼少の頃からそういった被害に遭いやすい傾向にありましたし、その加害者達を許す気持ちは今も1mmもありません。
けれどこの作品を知って、
それでも自分の「女性」を誇る気持ちを赦すことができました。
性的暴力は、被害者に対し心的ストレスを残すだけでなく、
女性であることすら屈辱と考えるようになってしまう。
そんな事例もあります。少なくともわたしがそうでした。
それでも女性に誇りを持ちたい自分自身に葛藤が生じ、
捻れ歪んだ結果、自分への尊厳が失われていったのです。
フロルを「ヒロイン」と呼ぶことには少し抵抗を感じますが、
彼女は本当に美しく、それでいて誇りの高さは作中でも上位に挙がる人物です。
誇りにも色々な種類のものがあるでしょうし、そこに正解はありません。
作中人物にもそれぞれに異なる誇りがあって、それぞれがその誇りをかけて強く生きる姿が描かれています。
中でもフロルに強い共感を抱いた理由を話すと、
ネタバレになってしまうので言及することはできませんが
フロルが女性を受け入れた時の美しさ、諦めではなく自らその選択肢を選ぶ姿に感銘を受けました。
後者の「Hedwig and the Angry Inch」
映画もかなりヒットしたようです。
世間の評価に疎く、知ろうという気持ちも薄いためファンの方に対しても失礼な表現になってしまってごめんなさい。
ヘドウィグは失われた魂の片割れを探す旅の中で
ツギハギだらけの自分の半生、今にも破裂しそうな心を表現しています。
色んなものを奪い取っていった人々の存在の歌い出しで始まるパフォーマンスの中で
自分自身を「exquisite corpse」として表現しました。
Google翻訳にかけると「絶妙な死体」といった
まさに絶妙に死んでる言葉になってしまうのですが、
その言葉の本当の意味は「優美な屍骸」と訳されます。
優美な屍骸(ゆうびなしがい、フランス語: le cadavre exquis)とは、シュルレアリスムにおける作品の共同制作の手法で、複数の人間が互いに他の人間がどのようなものを制作しているかを知ることなしに自分のパートだけを制作するというもの。文章、詩、絵画などでおこなわれる。
シュルレアリスム[1](仏: surréalisme[2]、英: surrealism[3])は、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動で(中略)「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。
ツギハギだらけで今にも壊れそうだし壊してしまいたい
そんな自分を「優美な屍骸」と表現して、
物語はそんな自分自身を赦し肯定して受け入れる展開を見せます。
そして自己の認識、受容を経たヘドウィグの表現は
「君はそのままで美しい」
「星みたいにキラキラ輝く君」
「君は間違ってなんかない」
「はみ出しものも負け犬たちもそれぞれに魂の叫びがある」
「祈りを捧げよう」
と他者の受け入れに展開するんです。
(歌詞の翻訳は主観を多分に含んだ意訳です)
わたしがずっと感じていた「受け入れたい」欲求は
「自分のありのままも美しく愛しく感じたい」欲求が根底にあって
誰かの評価じゃなくわたし自身が心からそう思うことで初めて叶うことなんだなと知りました。
表現の在り方や方法がたくさんある中で
Twitterというプラットホームを使って発信してきました。
わたしを見る人の目的は様々でしょうけれど、
中にはわたしの外見だけでなくわたし自身を評価して下さる方もたくさんいらして下さいます。
まっさらな綺麗な人間がいるとしたら、
それはそれでとても素敵なことだし尊いことだと感じます。
だけどわたしはたくさん引き裂かれて葛藤して、
たくさん泣きながら必死に自分自身を縫い合わせてきた
「優美な屍骸」
これからも、それでいいんです。
これからも、それがいいんです。
そしてこれからも、
貴方を肯定して受け入れる存在でいられるように祈り続けます。