情報保障と合理的配慮の関係 その1
実は、情報保障については、公的な支援として、「意思疎通支援」という制度がありますが、これは生活に必要なものに限られます。病院への通院や、子の学校PTA、役場での手続きなど。これは障害者総合支援法の地域生活支援事業というくくりで行われます。この「意思疎通支援」は「公的派遣」と呼ばれており、自己負担ゼロで派遣してもらえます。
ただし、定期的に学校に通ったり職場に行ったりすることには使えないところが多いです。職場での情報保障は、障害者雇用促進法でまかなわれます。
イベントの主催者が用意する手話通訳は、日本が批准した国連の障害者の権利条約のために整備された障害者差別解消法を根拠に「合理的配慮」として「公助」ではなく「共助」で実施するような建て付けになっています。つまり必要な費用負担は、事業者(主催者)にあります。
非営利でも関係ない
「事業者」は、定期的に何かを開催している人・団体であれば、利益を得ている団体もそうでない団体も関係がありません。何かやるときに「非営利だから障害者を追い出していい」という言い訳をしてはいけないということです。内輪のイベントならいいかもしれませんが、「広く人を呼ぶ」ときに、障害のある人から問い合わせがあって、自分も参加したいといわれたときに「あ、そういう人には対応してないんで、すみません、うち、お金ないんで」というような対応をするのが差別ですよ〜というのが差別解消法の言っていることです。「建設的対話」をしないことが義務違反=法律違反になるので、注意しましょう。
令和6年4月から、事業者が当事者からの申し入れに対して、「何かしら」の手を打つことが義務化されます。公的機関が義務だったが、それ以外は「努力義務」だったところが義務になります。何が変わるんでしょうか? 公的機関相当の対応が求められるようになるとしたら、相当の変化です。
過重負担といっても法の趣旨が優先される:法の趣旨とは
一応、差別解消法には逃げ道が用意されていて「その負担が過重でない限り」と但し書きがついています。とはいえ、その過重負担がどういうものかについては、文科省の基本指針を参照すると、「一般的に一人の人に対してかける手間・金銭として高い」みたいなのはだめってことがわかります。
「合理的配慮」は、国連の障害者の権利条約の目玉のひとつで、策定に際して、日本にはそれまでなかった考え方なので、新しい法律を作るしかありませんでした。日本政府がこの条約に署名したのは2008年ですが、批准したのは2014年です。その間に整備されたのが、内閣府所管の「障害者差別解消法」です。
「法の趣旨」が、権利条約=障害者の人権条約に基づいているため、合理的配慮の基本的な考え方は、「同様の機会の提供を受けるため」になっています。つまり参加の平等というより「結果の平等」志向という野心的な建て付けです。
「野心的な」というのは、そもそも、「参加」すら平等になってなかったのに、受け取るものが本質的に変更されないようにつなげと言っているからです。これは本当にドラスティックな認識の変更を要求していると理解している人がどれだけいるのか…(今まで、どれだけ人権が尊重されてきていなかったか)という話でもある。
話し合い無しの合理的配慮は「合理的配慮」の意味と違う
「合理的配慮」は英語ではreasonable accommodationで、「理にかなった調整」みたいな意味です。accommodateって動詞は、「便宜を図る」とか「折り合いを付ける」みたいな意味は辞書に載ってるけど、日本語の「配慮する」とはちょっと意味が違うようです。この「合理的配慮」は、基本的には当事者からの申し出に基づいて、事業者と当事者意見交換を経て、理にかなった、つまり双方がreasonableだと思う着地点を探すものです。それには、「話し合い」が欠かせません。そもそも意志決定に際して、当事者の意見を聞こうねという法律であるという理解が必要です。なぜなら、障害者の権利条約のスローガンそのものがNothing about us without usであり、それを体現するための方略のひとつが「合理的配慮」=話し合いによる調整だからです。
申し入れを受ける前に内規を作って、「一人につき上限がある」とか、「こちらで手段や業者を指定してあるので」と「話し合い」をしないのは、法の趣旨とズレていることに注意されたし。私が情報保障手段を手配するとき、まず最初にやるのは、希望を聞くことです。情報保障に限らず、イレギュラーなゲストがくるときは「こちらで準備できることはありますか、どうしてほしいですか」って聞こうという話なのですが。
もちろん、予算の上限などがあるのは「過重負担」に照らしても、運営上の問題ではまっとうな話なのですが、そもそもその予算自体が、「障害者が来ないことを前提とした予算」だったのが日本社会です。だとしたら、そこを見直す必要があるということです。会費を徴収するとか、補助金を申請するとかが事業者側の負担になりますが…。
だから、この「合理的配慮」の問題点は、コミュニケーションに障害を持っている人たちへの対応方針ですね。だから「合理的配慮」の基本的な考え方(同上の文科省指針)に、意思の表明の手段についていろいろ書いてある。
結構、意思の表明は、言語化ができても、毎回やってて疲弊するものだと思うので、ある程度は基本的な仕組み作りが有効だと思います。そもそもこれって、みんなの苦手な都度交渉なんですよね…。
研究場面における手話通訳の話(1)
研究発表をするようなイベントで手話通訳を手配するときに「合理的配慮」の枠を使いたいわけですが、手話通訳について打診したり意見を伺ったりすると、言語学者からも、音声認識による文字通訳や、スライド見ればいいのでは? と聞かれたりします。言語学者の集まりなのに、相手の使用言語を思いやれないというのであれば、一体誰が尊重してくれるのだろう? と、寂しい気持ちになります。
そもそも、スライド見るだけだったらあとで資料もらえばいいし、修正有りの文字通訳は、手話通訳よりは少し安いかも知れませんが、所詮文字です。もちろん、立ってしゃべっている人の様子は見えます。ある程度リズム・抑揚などが聞こえる難聴者にとっては、話している様子、声の感じ+文字になった情報で補完できるかもしれません。しかし、それが役に立たないレベルの聞こえの場合、場に行く意味はあまりないかもしれません。書き起こし原稿を読むか、あるいはさらに整理された原稿を読んだほうが役に立つでしょう。
聞こえる人たちは、それでも講演会をしますし、対面じゃないとだめだと授業もするし、懇親会もやってるわけです。その場に参加できないことがどのような不利を生み出すか…。いや、その場に参加できてこなかったから、どれだけの不利が生み出されてきたか、間に立つ私には見えています。そして、その不利を埋めるための努力をしてきた海外の人たちの成果も見てきて、「ああ、努力しなければ」といつも思っています。
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