いまある粗雑な「ありのまま」をスクラップして,理想状態の完成された「ありのまま」を戦略的に創り上げること,これがレトリックであり,パフォーマンスです!

日本人は,「ありのまま」という言葉が大好きなようです。

ありのままの自分

ありのままに話す

ありのままの姿

こういうフレーズに,なんとなく好印象を覚えます。

日本人は,人がこざかしく飾ったものや,人が小細工をしたもの,人のたくらみがあるものを,あまり好みませんから,どうしても,「ありのまま」のものが,素晴らしい・美しいと思い込んでしまうようです。

確かに,飾らない,小細工のない,たくらみのない「ありのまま」という状態には,それなりの魅力があります。

でも,レトリック的に,あるいは,パフォーマンス的に考えると,「ありのまま」の状態は,必ずしも,人の心を動かしません。

例えば,ちょっと怠け者で,自堕落で,面倒くさがりで,礼儀をあまり知らない人がいるとしますね。

その人は,座って,人と話すときも,背もたれに寄りかかって,ふんぞり返るような姿勢で話すか,テーブルに頬杖をついて,だるそうに話します。

特に,相手をバカにしようとか,偉そうにしようとか,そういう気持ちはありません。

ただ,怠け者で,自堕落で,面倒くさがりで,礼儀をあまり知らないので,自分が一番,楽な姿勢で話しているだけなのです。

つまりは,この人にとっては,「ありのまま」ということになります。

でも,この「ありのまま」を素晴らしい・美しいと思う日本人は,少ないでしょう。

私たちは,エチケット,マナー,礼儀,挨拶などで,人間の「ありのまま」を破ります。

本当は無口な人,人と話すのが苦手な人,面倒くさがりの人でも,あいさつや,「ありがとう」や「すみません」は言う必要があります。

「ありのまま」の自分としてはしゃべりたくなくても,人と接するときは,あいさつや感謝や謝罪の言葉は大切です。

また,自堕落な人でも,怠け者のの人でも,他人と話すときには,姿勢を正すなり,人と会ったときには会釈をするなり,笑顔で接するなり,それなりの作法があります。

寝ころんだまま,相手が欲しいものを,片手で投げて渡すというのは,重大なエチケット違反でしょう。

これも,「ありのまま」の自分から,洗練された(つまりは,手を加えた)自分を演じているわけです。

皆さんも,例えば,職場で大嫌いな人に対してでも,あいさつはするでしょうし,敬語も使うでしょうし,それなりのエチケットを守って接しているでしょう。

「ありのまま」の皆さんなら,ぶっ飛ばしてやりたい!と思う相手でも,そういうわけにはいきません。

そこは,社会人としての礼儀に従い,大嫌いな人の前でも,それなりに洗練された立ち居振る舞いをしますよね。

つまりは,私たちは,普段から,「ありのまま」の自分で生きているということは,あまりありません。

聖人君子でもない限り,本当の意味での「ありのまま」の自分が完璧なマナーやエチケット・作法を兼ね備えているということはないでしょう。


教員採用試験の面接でも,「ありのまま」の自分ではいけません。

呼ばれたから面接室に入るのだからノックはいらないだろうと思っても,そこは,ノックをするのが礼儀です。

疲れたから早く座りたいと思っても,「どうぞお座りください。」と言われてから座るのがマナーです。

しんどいから,椅子の背もたれに寄りかかりたいと思っても,面接中は,背筋ピン!というのがエチケットというものです。

さらに言えば,

たとえ,教育委員会なんて大嫌い!と普段から思っていても,面接の場で,教育委員会の悪口は言えません。

たとえ,大嫌いな保護者がいても,面接の場で,保護者の悪口や愚痴は言えません。

たとえ,この面接官はバカだな!と感じても,それを言葉や表情や態度に出すことはできません。


私たちは,「ありのまま」の自分で行動しない,「ありのまま」の自分で発言しないということで,社会のマナーやエチケットや作法を守っています。

レトリックで,相手の心を動かすという場合もまったく,同様なのです。

すべて,事実や真実,正直な気持ちだけを言えば,相手の心が動くということはありません。

そこには,綿密な戦略と,磨き抜かれた演出・演技・作法が必要です。

私たちは,ドラマや映画や小説などに感動します。

ドラマや映画や小説は,全て,人為的に作られたものです。

でも,上手く作られていれば,人の心を動かし,感動させる,泣かせる,笑わせる力があります。

「ありのまま」を自然のままと定義するのであれば,自然のままとは,カオスであり,粗雑です。

そのカオスで粗雑な「ありのまま」に対して,人が,戦略と想いをもって,人工的に手を加え,磨き上げるから,人の心を動かし得るものになるのです。


面接の練習について,あまり練習し過ぎると自然さが失われるなどと,誤った愚かなアドバイスをする人がいます。

こんなアドバイスは,絶対に間違っています。

自然に話せるようになるまで,徹底して練習することが必要なのです。

自然さがないのは,練習が不足しているだけです。

人を感動させる自然さは,練習の賜物です。

人間国宝と呼ばれる職人さんなどの立ち居振る舞いは,とても自然に見えます。

でも,その背後には,数十年にわたる修行と練習と経験があります。

何もせずに,寝ていただけでは,自然な立ち居振る舞いなど,絶対にできません。

面接の語りも,自然に見える,自然に聞こえるまでの練習が必要です。

また,面接の語りのレトリックも,磨きに磨いて,それがレトリックだと感づかれないようになるまで,推敲,練習することが必要です。

「ありのまま」より,徹底的に練習して,磨きに磨いて磨き上げ,作りに作り込んで創り上げることが,何よりも大切です。

人は,「ありのまま」を離れるとき,磨き上げられた,本当の素晴らしさと美しさを手にすることができます。

そして,それが,自然さとして,理想状態の「ありのまま」となるのです。


アイロニカルですが,本当に素晴らしく,美しい完成物としての理想状態の「ありのまま」を創り上げるのは,元々あった粗雑な「ありのまま」を壊すことに外なりません。

いまある粗雑な「ありのまま」をスクラップして,理想状態の完成された「ありのまま」を戦略的に創り上げること,これがレトリックであり,パフォーマンスです!

河野の個人レッスンや講座では,こうした,レトリックやパフォーマンスを徹底的に,特訓・演習しています。

皆さんも,レトリックとパフォーマンスを特訓して,理想状態の完成された「ありのまま」を戦略的に創り上げましょう!


河野正夫
レトリカ教採学院

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