音楽ZINE『痙攣』増刷記念全記事コメント「ウェブ×音楽ライターの新時代」
私が対談の司会という形で参加した、小沢健二~メタルまで扱う音楽批評ZINE『痙攣』が増刷されるそうです。
『痙攣』については、執筆者のひとりである伏見瞬さんがガチのコメントをしているのですが、私も増刷タイミングということで全記事へのコメントをしたいと思います。タイトルの話は最後の方に出てきます。(アーティストは個人名でも「アーティスト名」ということで敬称略します)
序文(李氏)
白黒なのにカラーみたいなめちゃくちゃかっこいい質感とデザインを開いてのこの文章。ワクワク感がすごい。ただ、Black Midiはストリーミングよりむしろ違法ダウンロード的なのかなと思いました。
小沢健二、ジョーカー、BUCK-TICK -生活から生へ-(李氏)
興味対象にポンポンと移り繋がりを浮かびあがらせながら疾走していく様はまさに痙攣がバクチクするという感じで、なるほどなあ、と思いながらおもしろく読みました。レヴィ=ストロースの構造人類学ならぬ構造音楽評とでもいいますか……。
そのなかで「もっとこの文章の背景が知りたいな」という点がいくつかありました。
そのひとつが小沢健二評です。作品の歌詞だけを抜き出してその作品に込められた思想を語る、という方法は一般的です。ただ、基本的に歌詞は音楽にのせることを前提に書かれているものです。歌詞に書かれていない感覚が音楽によって描かれている、ということは珍しくありません。
小沢健二は当然そうした歌詞と音楽の相互作用は意識しているはずですし、作詞者と作曲家が異なるBUCK-TICKよりも、その傾向は強いはずです。そして、李氏さん自身も歌詞と音楽の相互作用というのは体感しているはずです。その相互作用を体感してなお文章内の結論に至ったのだと思うので、そこも知りたいなあ、と思いました。
あと細かいところなのですが、小沢健二の一人称移動(僕ら→僕)とか歌詞の抽象性って、けっこう櫻井敦司にも当てはまる(一人称移動:僕と俺の混在すなわち個人とスターの視点切り替え)ので、そこの共通点がどういう差に帰結するのかも知りたいですね。
次世代の「ロック」の在るべき姿-Bring Me The Horizon『Amo』論-(カヤマ)
音楽ブログのレビューでは、全体の話→個別の曲の特徴の説明という流れはかなり普遍的な形式なのですが、その形式がZINE的な論調の中に自然に取り込まれている、というのがいち音楽ブロガーとして「はー!」となりました。
この文章について伏見さんはこう指摘しています。
ただ、カヤマさんが新しい「ロック」の定義として挙げている「センセーショナルなファッション」「他のジャンルやポップシーンへの興味」「停滞の拒否」「悲痛や孤独の表現」って全て今までのロックに当てはまっているというか、むしろ60年代から続く「ロック」の基本命題ではないでしょうか。
確かに、という感じです。
カヤマさんは過去の音楽も体系立てて聴いていますし、おそらくその過去のロックスターとBMTHのロックスター性の質的な違いを感覚としてわかっていると思うんですよね。それをどう具体的に言語化するか、ということなのかなと思いました。
世代と環境を巡って(清家、李氏対談)
清家さんが途中インタビュアーみたいになっていて、プロの聞く技術……!となりました。ザッピング的な李氏さん(個人史)と体系的にさかのぼる清家さん(正史)の対比が序文と繋がってておもしろいですね。
モンタージュ音楽論-Solange、小袋成彬、JPEGMAFIA-(♨︎)
コラージュやモンタージュという用語の適切さなどなどについてはいろいろあるようなのですが、「従来の作品よりも断片的な構造を持つ作品がメインストリームで立て続けに発表された」というのは、リアルタイムのリスナーの貴重な感覚だと思います。
その感覚を、歴戦の音楽オタクたちに説明しようとすると、じゃあミュージック・コンクレートとの違いはどうなんだ、とか、映画音楽は?プログレは?とさまざまな過去の類似例との比較・検討が必要になるんですよね。
本稿ではそのあたりの比較は出てきませんでしたが、その後の議論を重ねつつ♨さんはこの件について継続して調査・深掘りしているようなので、次回作を待ち望んでいます。あと、なぜそんな断片化された音楽がメインストリーム音楽足りえたのか、というところをもっと知りたかったです。
もっとチルしていたいのに(ヨアケノ×吸い雲対談)
衒学チルとでもいうべきか、有識者の気軽な雑談から得られるものは多いという感じでした。知らない曲もたくさんでてきたのでディグりがはかどります。突然のマイケミディスにも笑った。
Vegyn『Only Diamond Cut Diamonds』レビュー(吸い雲)
まるでライナーノーツ読んでるようにすーっと染み込んでいく……。VegynとSkreamとの共通点をもっと文字数たっぷりと解説したものが読みたくなりました。
長谷川白紙『エアにに』(李氏)
いきなり『攻殻機動隊』の話が出て、そのまま『エアにに』にスライドしつつ、観念的な結論にいたる。読み手の想像力を刺激しつつ納得感のあるこういう文章は、李氏さんのシグネチャーだと思います。一部で怪文章といわれてもいるようで、確かに独特の難解さはあります。
基本的に読み手にひとつの軸を明示した、具体的な文章ほうが「わかりやすい」です。そのわかりやすさはSEO的・PV的なウェブの価値観とも相性がよく、ウェブでは「正解」みたいな扱いになっています(私もこちらのマガジンでそういうことを言っています)。
でも「わかりやすさ」は文章のおもしろさを伝える手段のひとつみたいなところがあります。彼のギターの運指は正攻法ではない。でも彼の奏でる音はこんなにもすばらしいよね?みたいな。
もちろん、「わかりやすい」文章を書けるうえでの……というのもまた事実。伏見さんのような批評を学んだひと・文章を学んだひとの導き、あるいは独学の先にある、その独自性の基盤をさらに固めた李氏さんのシグネチャースタイルを読むまで死なねぇ……という気分です。
Metal The New Chapterの可能性(s.h.i.、清家、カヤマ対談)
司会で参加しました。読んでいただければわかるように途中からs.h.i.さんが司会みたいになっています。ひー! もっと本番までに司会者としての意識をしっかりもって参加者間のすりあわせを積極的にしておけばよかったなと思いました。「断る」という選択肢もあったわけですが……参加したかったんだよ……
あと、原稿チェックのときに、会話の飛びとか表記の揺れは直したつもりだったのですがけっこう抜け落ちていたようなので、ここも反省です。
でも、ヴィジュアル系の話が出ても早口のオタクにならず補佐役に徹したのだけは褒めてほしい。
NINE INCH NAILS≠Trent Reznor(李氏)
NINにとって「群れ」になることがどういう意味を持つのかがもっと知りたかったです。
THE NOVEMBERSと変革の最低条件(伏見 瞬)
ロッキングオンジャパンなどが取り上げていたバンドと、ヴィジュアル系バンドは根本は同じ、という話は、俺はヴィジュアル系生まれロッキングオン育ちバンド形態のやつは大体友達みたいな30代が多々いるウェブをみていると納得感があります。
「波」と「渦」の話もおもしろい。今回は「渦」にフォーカスした話でしたが、個人的に「波」の感覚があまりつかめてないようなので、概念のもととなった本も読んでみようと思いました。
彼らの歌詞が「生活」的であるというのもあまり意識してなかったです。私のなかで「生活」(がばがば概念)とハードコア(がばがば分類)というのがここ1~2年のひとつ気になるテーマなので、その視点の参考にもしたいなと思いました。
戴冠 -ビリー・アイリッシュと私-(清家)
日本の大手メディアレベルでのロック/メタルシーンは、現在進行形で「ガールズバンド」「嬢メタル」特集が組まれたりして、その中で本人たちに「女性としてみないでひとりのアーティストとしてみてほしい」といわれている状況です。
企画側としては、継続してやってきた企画だし、女性が少ない分野で活躍する女性たちを特集して、女性をエンパワーメントしたい、という意図があったのかもしれません。でも、アーティスト本人たちは女性属性で評価にゲタを履かせてもらっていると感じてしまう。もっといえば、男性社会という枠組みのなかで女性というカテゴリで踊らされているだけと感じてしまう。
実際メタルの世界には「嬢メタル好き」という、女性性に価値を見出す層もいます。そういう層が「女性のやるメタルなんて」という性差別的認識のリスナーの考えを増幅させている可能性もあります。
メタルというのはそういう世界です。そして、清家さんが編集部に在籍していた『BURRN!』は、20代女性という清家さんの属性が軽くセンセーショナルに受け取られるくらいには、そういうメタルの保守的な部分がひとつの特徴と取られている雑誌です。そういう中で、清家さんが旧来『BURRN!』的なものの革新に向けてさまざまな活動を行ってきたのだろうということは「BURRN! Online」の企画をみても察することができます。(もっとも、カヤマさんが対談で触れているように2010年代の『BURRN!』はかなり新しい価値観を打ち出してきてはいました)
本稿は、そういう背景もあっての切実さというか、真に迫ったものがあるわけですが、そういう背景を知らなくても、おそらく伝わるものがあるほど表現が研ぎ澄まされています。『Innertwine ZINE 第1号』の「Kids Return」もこうした私的なエッセイで、本稿と同じ方向性の詩的な表現も登場しますが、その鋭さは段違いです。その変化も含めて、なんというか、なんというべきか……という文章でした。
こういう形でも作品のある要素を読み手に提示できるんだなぁという学びにもなりました。
ちなみに『Innertwine ZINE 第1号』には私も寄稿してます。あまり書いたことのないエッセイスタイルでDIR EN GREY「CLEVER SLEAZOID」について書きました。読んでもらえるとうれしいです。
「叫ぶ女」(s.h.i.)
意志決定にかかわる男性がその男性よりも年齢が下の女性を登用すると「オッサンが若い女性をちやほやしている」と画一的に受け取る層は一定数います。それは、シーンの男女比率や性認識をゆがめている一因でもあるでしょう。s.h.i.さんがこの文章で取りあげている「選者の男女比を1:1」とするRoadburnの仕組みは、そういう構造を払拭しうるものです。
s.h.i.さんは日本のメタル好きの書き手のなかでもさまざまな点で頭ひとつ抜けてるとおもいます。いま氏のTwitterでリゾーム的に繋がっているメタル系論説や、ブログがまとまって単著として出たらものすごく貴重な本になるのになあと思っています。
声と革命-GEZAN『KLUE』論-(李氏)
これまでの李氏さんの文章の中でも一番なるほど感が高かったです。最後を締めるにふさわしいとおもいました。「暴力」側での締めですね。
途中ダブにフォーカスがあてられますが、ダブはレゲエと紐づいており、レゲエはレベルミュージックなので、そこを結び付けて展開するのもおもしろそうだなとおもいました。
TL感について
『痙攣』は執筆陣発表当初から「TL感」、すなわちTwitterのつながりを強く感じる面々であることが話題になっていました。今回の『痙攣』では、それは良い方向に働いたように感じます。(ちなみに私は李氏さんをフォローしたのも比較的最近で、参加者の中では一番TLから遠いはず……)
TL感の弊害のひとつとしてハイコンテクスト、つまりTLみてないとなんでそういう話になるのかよくわからない感があるでしょう。ハイコンテクストは外へと働きかける際の障害となりうるものではあります。ただ、このハイコンテクスト性は、李氏さんの広い興味とシグネチャー文章に回収されているように思えます。そしてそれが冒頭の宣言の「個人史」という言葉と結びついて「ああ、まあそういうことなんだよね」と謎の納得感がありました。
あとやり玉にあげられそうなのは「内輪」感でしょうか。これについては、TL感というのは、Twitterの外に出てしまえばそれほど内輪感を醸し出さないのだな、という印象でした。
TLが、必ずしも個人的な結びつきを意味しないからかもしれません。TLはその人がみている「つぶやきの集まり」で、たとえば「なんかよく話題になる隣のクラスのやつ」「なんかあいつは隣の中学のやつと塾が同じで仲がよいらしい」「そもそもあいつ誰だっけ……?」みたいな関係の人がたくさん出てきます。「あの人とあの人はめちゃくちゃ仲悪い」みたいなパターンもあります。たとえば大学のサークルよりも遠い集合です。
そういう違いもあり、私のみているTLと、李氏さんのみているTLは、おそらくかなり違うものでしょう。それは、メタル対談関係者以外はメタルについておそらくあまり知らない点や、私がVegynやSkreamを知らなかった点にも表れています。あと、「コラージュ」についての見解で『痙攣』も一枚岩ではないな……というのがTL上で可視化されているのもあります。
じゃあ逆にバラバラなのかというとそんなことはないです。まず「チル / 暴力」というテーマに沿ったような二項対立的な、あるいは視点移動的な文章がたびたび出てきます(そういう論展開がスタンダードだからというのもありますが……)。また、コラージュやインダストリアルといった言葉が、記事を横断して登場しています。TLの「なんとなくみんなが(李氏さんがTLでみて、発信しているものと)同じものをみている」感がうまく雑誌の統一感に繋がっているように思います。
内部批評っぽいとこがある
内部批評的な構造も内輪感の軽減につながっています。わかりやすいのがジェンダー。清家さんの投稿は『痙攣』のジェンダーバランスにも突き刺さるものでした。それを補うかのようにs.h.i.さんのRoadburnの文章が続き、最後にその両者を受けた形で、李氏さんがジェンダーバランスについての具体的解決策を提示しています。マッチポンプ的ではありますが、内部批判構造が可視化されており、それが次回に活かされる形になっている。いわゆる "駄サイクル" とは異なる状況です。
とどめは、冒頭で紹介した伏見さんのコメント集。とくに李氏さんへの厳しい内容が含まれています。『痙攣』の事前の話題性は、ハイプにつながりかねなかったとおもうのですが、『痙攣』誕生の重要人物である人が辛めのコメントを発信したことで、ハイプ感が減って批評誌としてのガチ度が上がったように思います(そう感じた人は私の他にもいたようです)。また、今回の『痙攣』の内容に不満をもつ読者が、改善への期待で次号を買ってくれる可能性も高まったのではないでしょうか。
そういえばインタビューがない
批評誌としてのガチ度という点では、インタビューがなかったのもよかったです。音楽ZINEを作るなら、まずインタビューを入れようと思うでしょう。なんなら目玉として取り上げるくらいでしょう。でも李氏さんは、批評性という観点から、インタビューはしなかった。
この事前ガチ度とTwitterでの存在感が「Twitterで目立ってるあの人たちがガチで批評したらどうなるわけ?」という興味に醸成されての、初版完売という結果なのかなと思いました。
柴那典さん「チルから暴力へ」案件と「ウェブ×音楽ライターの新時代」
『痙攣』のテーマ「チル / 暴力」は、「チルから暴力へ」がもとになっています。
Twitter上でなかば李氏さんの代名詞となっていた「チルから暴力へ」を、音楽ライターの柴那典さんが偶然Mura Masaのレビューで使うという出来事がありました。柴さんはこの件で『痙攣』を知り、購入したようです。
柴さんはもともと「ロッキングオンの入社試験をブログでネタにして怒られた」というレベルの、生粋のブロガーです。ブロガーが音楽ライターになった元祖ともいえるかもしれません。その後、2010年代前半に、ブロガーをメディアが書き手として引っ張ってくるムーヴメントが起きました。2010年代後半に、「引っ張ってくる」対象がブロガーではなく「ブログをもつツイッタラー」に推移してきたことで、「ツイッタラーを書き手として引っ張ってくる」≒「TL感」が大手媒体・商業誌でも目立つようになりました(『ユリイカ』で一気に可視化された)
そのツイッタラーが、既存メディアに引っ張られるまえに、まず個人でストロングスタイル志向の音楽批評ZINEを発刊した(そしてそれが話題となった)、というのが『痙攣』でした。奇しくも2020年。░▒▓新しいデラックス時代▓▒░の到来を予感させます。
Twitterは、「Twitterはクソ!」みたいなことをいいながらTwitterをし続けるひとが続出するほどの中毒性があり、それゆえに人間の欲望が渦のようになりたびたび爆発して問題視されるのですが、こういうポジティヴな動きも生み出すということは忘れないでおきたいです。
というわけで、ウェブ×音楽ライターの先駆けともいえる柴さんが「チルから暴力へ」ということばで李氏さんと同じ感覚を示し、さらに『痙攣』に対して興味を持っているというのは、音楽ブロガーのひとりとしてなんかすげーーーわかる!!という感じなのでした。
終わりに
次号も製作決定しているようです。
今号では、TL感がフレッシュ感・オルタナティヴ感と注目度・内容ともにいい意味で作用したとおもいます。ただ、号を重ねるほど常態化しますし、クオリティを高めるほど権威化してくるはずです。このあたりをどう消化していくかもいずれ考えないとならないんだろうなあとおもいました。
ともかく、このZINEが、10年後20年後に日本音楽批評界での重要点として語られるようになればめちゃくちゃいいなと思います。そしたらワシはTwitterで自慢するんじゃ……「ワシ、実はあの『痙攣』初号に参加していたんじゃよ」……と……
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