この中に日本語ラップ好きでMAKKENZを知らないお客様はいらっしゃいますか?
そんな方のためにまとめました。
※本記事は投げ銭記事です。参考になった・おもしろかった、そう思っていただけたなら、記事を購入していただけると嬉しいです。また、アカウントのフォローもよろしくお願いいたします。
MAKKENZ。
独特の言語感覚と繊細な感性によって描かれる詞を、朗読に近いラップで繰りだすミュージッシャンです。いわゆるヒップホップとは少し違う存在感があります。韻の踏み方も独特です。
上記は異種交雑ダンスバンドのnegoの既存曲に詞をのせた曲です。原曲がバンドサウンドのため、ラップといわれてパッと思い浮かぶような曲とはかなり雰囲気が異なります。そして、ラップというよりも詠唱のように聴こえるのではないでしょうか。
そのMAKKENZが、5年ぶりに活動を活発化させました。2022年7月30日に「火事場」を発表。11月25日には「ふくしゅうの歌」の発売が予定されています。YouTubeでは22日に配信されました。
ということで、本記事では、MAKKENZのこれまでの作品を総まとめしました。「どれから聞けばいいの?」に答えるディスクガイドと「なぜ彼の音楽は魅力的なの?」の一端を示すレビューという二本立てで参ります。
なお、本来この記事は『土葬水葬火葬風葬空想』発売発表時にこれまでの活動を総括するために書かれたので『土葬水葬火葬風葬空想』のレビューはありませんのでご理解ください……座卓の下にもない。そのぶん無料です。
時期によって音楽性が違う
MAKKENZは時期によって音楽性が異なります。作曲者が違うからです。nego以外には4組のミュージシャンと組んで作品を発表しています。また、自身が作曲して3枚のアルバムを出しています。それにともない詞も変化していますが、とはいえ彼の特異さはそのままで、曲と強い一体感をもって迫ってきます。
まずは主要アルバムの概要を書くので、自分の好みに合いそうなものから聴いてみてください。ほとんどの作品がダウンロード購入できるほか、SHIBUYA TSUTAYAでは多くの作品がレンタルできるようです。
『わたしは起爆装置なわたしか』
和を感じさせる得体の知れないサウンドに、戦後~現代までを想起させる言葉がのっぺりとした声でのせられる。もっとも刺激が強くわかりやすい作品。変な音楽が好きならおすすめ。公式でデジタル購入可。7月発売の「火事場」はこの路線。
『白くなる時刻』
不可思議な世界観の都市物語を抒情的なトラックに乗せる。根底にあるのは生きにくさ。内省的な音楽が好きなひとにおすすめ。中古CD以外の入手が不可。P-VINEさん復刻か配信かしてください。
『ユシトアミア人間』
詞が日常的になっている。「蜘蛛の巣の糸の上で遊ぶ蝶」は彼の作品のなかでもっとも抒情性が高い曲。CDは廃盤だが、ダウンロード購入ができる。11月発売の「ふくしゅうの歌」はこのあたりの路線。
『陸の外海の外』
歌詞に怒りが混じりだし、直接的になった。曲は前作の延長で、構造がやや単調でマンネリ気味。彼の怒りを感じたい場合は次作のほうがよい。ダウンロード購入できる。
『Entry Probe』
ここからしばらく作曲を他人に任せるようになった。本作は珠洲(SUZU)がトラックを手がけている。ブレイクコアやジャングルを基調とした、ギターやによる轟音も出現する攻撃的な曲に憤怒のこもった詞が乗る。ふだん重めの音楽を聴いているひとにおすすめ。公式サイトからダウンロード購入できる。
『私を軸にして街が回転した時に出来る回転面に私達が加わり街を軸にして私達が回転した時に出来る回転面に私が加わる』
電子音に生楽器や環境音を加えながら淡いサウンドを組みたてるBuggがトラックを手がける。日常的な描写が増え、曲も柔らかいため、もっとも広く受けいれられる作品だろう。公式サイトからダウンロード購入できる。
『土葬水葬火葬風葬空想』
無邪気な悪夢――アリスインワンダーランドでポストクラシカルな電子音楽をつくるarai tasukuとの共作。「火葬」に限っては、初期の奇天烈な雰囲気を激烈に甦らせたような曲だが、作品全体としてはもっと陰気で鬱屈している。暗いのが好きなひとにおすすめ。公式サイトからダウンロード購入できる。
ここまで日常と神話を縦横無尽に行き来できる存在、やばくないすか?
ここからは各作品の詳しい特徴を通して、MAKKENZの魅力を見ていきたいとおもう。
しよつまやげか期
『叫美』『歌跡』『消しdeleteゴム』『わたしは起爆装置なわたしか』
半分以上のトラックがしよつまやげかの手による。同じ曲が複数の作品に収録されており、音楽性にも際立った変化はないため、ここでは『わたしは起爆装置なわたしか』を代表作品としてついて言及していく。
『わたしは起爆装置なわたしか』
しよつまやげかのトラックは強く和を感じさせる。どこか投げやりな囃子リズムのまわりでさまざまな効果音が鳴る混沌としたトラックは、縁日の喧騒を思い起こさせる。
そこに乗るMAKKENZの声はのっぺりとしていて、ラップと音読の中間のような形で進む。詞は誰かしらの日常を描いているような描写が多い。「いつか知らぬ内に戦に散る花を外から観るだろう」など、全体として戦後~昭和の雰囲気を感じさせるが、スタバやパソコンなど現代的な用語も並ぶ。
その投げやりなトラックとラップ、日常を描きながら日常的ではない言語感覚で書かれる主体も時代も不明瞭な詞は、聴き手の認識を大いに混乱させる。
だが、決して奇天烈な印象だけで終わるわけではない。本作のなかでもっとも耳を惹く#3「スズキさんは隠さない」の詞を見てみよう。
このように、ひたすらスズキさんの属性について語っていく。
彼のもつ属性は世間的にネガティヴにとらえられがちなものが多い。だが、意識的・無意識的かは不明だが、スズキさんはそれらを隠さない。世間の常識や見栄、外聞といったものに彼自身の発現は左右されない。彼にとって重要なのはそうしたものではない。
つまり、この曲はアイデンティティの曲であり、人間の在り方についての曲である。
思想に裏打ちされた見世物
彼の曲には、フローの不気味さや特殊な言語感覚の裏に、人間や存在に対する何らかの思想をはらんでいる。「人間の在り方はどうあるべきか」を考えるときに「人間の在り方はどうあるべきか」と書かずに、何かしらの物語――ジェニファーと竹雄や、スズキさんが主人公のソレとして提示している。
縁日のようななじみ深い雰囲気や、お化け屋敷じみた奇天烈さ。そうしたわかりやすい見世物要素に惹かれた聴き手に対し、物語を経由して流し込まれる彼自身の思想。MAKKENZを聴いたときに受ける衝撃は、表面的な奇天烈さを媒介として流し込まれる彼の思想で、「在り方」を揺さぶられることで起きるものだ。
『HATONOASI』
HATONOASI名義で発表した作品。MAKKENZが作曲を手掛けた。『白くなる時刻』と、そのプロトタイプとも言える『HATONOASI (TAKONOASI.SASIMI)』を繋ぐような内容。
彼自身が手掛けたトラックはリズムが不明瞭で、低音の効いたアンビエントという側面が強い。詞には戦後要素がなくなり、主人公もよくわからない。
トラック、詞とともに、しよつまやげかに影響を受けていたと思われる部分が削ぎ落とされている。この作品には純粋にMAKKENZ個人が反映されているといえる。
鈴木さんたちを介さずに、直接触れられる彼個人の根源のようなものの得体の知れなさ。それが彼の作品のなかでもっともあらわれているのが本作である。
『HATONOASI (TAKONOASI.SASIMI)』~『白くなる時刻』
『HATONOASI (TAKONOASI.SASIMI)』と『白くなる時刻』は、奇怪な印象が強かった『わたしは起爆装置なわたしか』や不定形だった『HATONOASI』と比べて格段に耳なじみが良くなっている。
静謐なトラック。ピアノで奏でられるメロディは冷たく、儚げだ。それに合わせるように、ラップや詞も変化している。ラップは声を抑えた、より韻を強調するようなフロウになっている。詞は現代の都市を彷彿させるような単語が増えた。翻訳文のような支離滅裂な文体はあいかわらずだが、その中でも表現が具体的になった。
『BLAST』(2007年5月号)のインタビューで、彼は「今回の歌詞はちょっと理性的に書いたかもしれない」と語っている。
そうした点から、前作の「奇天烈さ」「意味不明さ」に注目していた聴き手は肩透かしを食らうかもしれない。
「煤木さんは隠す」
もっともわかりやすい例が『HATONOASI(TAKONOASI.SASIMI)』に収録されている「煤木さんは隠す」という曲だろう。前述の「スズキさんは隠さない」の種明かしになっている。
「スズキさんは隠さない」ではぼんやりと推測しかできなかったことが、具体的につづられている。ただし、具体的になったのは記述方法だけで、内容は観念的だ。この詞は「スズキさんって誰だよ(笑)」「黒人なのかよ(笑)」といったやり方で流すには意味をほのめかしすぎているし、かといって一度聴いただけですぐ意味が理解できるほど単純でもない<small>(もし理解できるとしたら、それはそのひとが常日頃から社会や人間、真実といったものに考えをめぐらせているからだろう)</small>。
『わたしは起爆装置なわたしか』は、記述自体が感性的で遠回しだったことで、曲の意味をいちいち考えない聴き手も「意味不明」で処理できた。しかしこのころの作品は、意味が明確にあることがわかる記述になったせいで、聴き手は意味の解釈を要求されるようになった。要するにめんどくさくなった。
彼が彼の感性を理性によって翻訳した結果、表面的にはかえって複雑に見えるようになった。このことは、彼の才能が奇をてらった類のものではなく、真の思慮深さと独特な感性から来ていることを示す。
見世物的なわかりやすさはなくなったとはいえ、聴き手を突き放すような作品ではない。ある種の人間にとっては、より心に浸透する内容になっている。
奇妙な記述が取り払われた結果、詞はより彼の個人的な感情を表すようになった。その感情が都会的な冷たさを持つトラックと相まって、本作は強く抒情的になっている。描かれるのは、自分や人間や社会や生や死や存在や、そうしためんどうな事柄を考えて立ち止まらずにはいられない、「生きにくい」人間の感情だ。
ときに空想の内に生き、ときに支離滅裂で難解な彼の言葉は、抒情とその曖昧さを媒介として、ぼんやりと、しかし同じ生きにくさを感じている聴き手に染み込んでいく。生きにくい、しかし彼ほどの感性を持たない聴き手は、その言葉と向きあっているときだけは、心の奥に抱える生きにくさを、彼と同等の感性を持って体感する。だからこそ聴き手はこの作品を何度も繰り返し、繰り返し、涙する。
この「独自の感性が擬似的に聴き手の感性と同一化される」というのは、MAKKENZの作品の大きな魅力のひとつである。
『ユシトアミア人間』
自身のレーベルTRUMAN RECORDSを設立しての作品。
基本的には『白くなる時刻』と同じ路線だが、サビ様の部分があるわかりやすい展開の曲が増えた。壮大なピアノとシンセのメロディを背後に人間を描いた#7「蜘蛛の巣の糸の上で遊ぶ蝶」は、彼の作曲した作品の中での最高傑作のひとつだろう。
『陸の外海の外』~『Entry Probe』
生きていると理不尽なことはたくさんある。その対象が人間にしろ社会にしろ、怒りを覚えても仕方がないほどに。
本作には怒りに満ちている。多くの国を旅しながら、これまで人間社会について考えを巡らせてきた彼が、世の中のさまざまな不義に対してそうした感情を抱いてもおかしくはない。
その怒りによって、彼のひとつの特徴だった抽象性や空想性は減退し、攻撃的で直接的な言葉が並ぶことになった。それもそのはずだ。彼の怒りは人間社会に起こった具体的な事象――不義理や搾取、無知、強欲に根ざしているからだ。この世に形としてあるものへ強い感情を示すとき、その感情もやはり確かな形を持つ。
その傾向は、彼自身で作曲をした『陸の外海の外』よりも、トラックメイカー珠洲(SUZU)が中心となってトラックを手掛けた『Entry Probe』で顕著だ。ブレイクコアやジャングル、アブストラクトヒップホップを基調とした暗く強めのビートは、突き刺さるような高音とともにMAKKENZの怒りの感情を後押しし、聴き手に流し込んでくる。
不定形だったMAKKENZ個人が怒りという志向性をもった、もっとも攻撃的な作品になる。社会への怒りを感じている人々にとってはより深く刺さるだろう。一方で内省的に生きにくさを処理していた人々は、戸惑うことになるだろう。
『私を軸にして街が回転した時に出来る回転面に私達が加わり街を軸にして私達が回転した時に出来る回転面に私が加わる』
2011年1月に発売された6枚目のアルバム『私を軸にして街が回転した時に出来る回転面に私達が加わり街を軸にして私達が回転した時に出来る回転面に私が加わる』(以下『(回転)』)は、トラックメイカーBuggを迎えて作られた。その後、彼とともにシングル『豚牛馬』『ウィトゲンシュタインとピーマン食う』『どこからでも見えるHWLKUCPとHWMWUJKOC』の3作を配信リリースしている。
タイトルの街という単語からもうかがえるが、本作では日常の描写が多い。本人の日常だけではなく、旅先で見た日常や、彼以外の視点による日常も混じっている。
彼の台湾、タイ、インドの旅行記+惹句である電子書籍『動力を受けて飛ぶインド』が同日配信されている。
#1「ターミナル」は彼の独白と旅先の日常、そして帰国後の日常がコンパクトに描かれている。「なれなくても良いんだ 何でもこなせる人間になれなくて良いんだ」という何かしら答えを得たような言葉から「横から聞こえてくる意味の解らない言葉が心地好い」と旅先での感触を述べ、「降下する飛行機」、「弾き出されながら弾き出す生活費とギターを買う金」と現実に直面したあとに「やるだけやってみたけれどうまくいかなかったね」、「丸まって待つ 頭上の巨大な観覧者を回す風」と思い悩む。
作品全体に、こうした旅先での解放感と日常での閉塞感という構図がみられる。もし#1「ターミナル」の記述順が現実→旅であれば、「旅にいって日常にある種の悟りと解放を得てポジティヴになった」という単純な物語になるが、そうではない。
#6「Trippp」と#7「ヤブカタブラ」を見てみよう。前者は旅先の現地人が彼に語りかけている内容、後者は彼の旅行記のような内容になっている。現地人は野良猫にエサをあたえ「かわいそうな人たくさんでもたまにしか助ける出来ないよ」と語る。一方でMAKKENZは物乞いに「疲れ切った俺を通せ 道を開けろ 今度、余裕があるときにはあげよう」という態度を取っている。その後のサビでは「踊るヤブカタブラ 在るが儘に在る」と語られる。
彼が旅で「在るが儘に在る」という思想を得たことは間違いない。それは臓器ドナーとして生まれた少年アモルの日常を描く#3「Amor」や、エジプトのカイロで録音した音が使われている#9「星屎の落ちる方」からもわかる。一方で#2「僕と僕らのトーラス」では「一番なりたくなかった自分になってしまったのかも知れない」と、「在るが儘」の自身を否定するようなことを語っている。
一見矛盾するようなこのふたつの言葉たちを繋ぐのが作品名である「私を軸にして街が回転した時に出来る回転面に私達が加わり街を軸にして私達が回転した時に出来る回転面に私が加わる」だ。
中心が私であれ街であれ、それぞれを軸とした世界が形成され、動いている。世界の軸となる別の何かがその世界に加わったとき、巨視的には2軸のひとつの世界として複雑な回転を見せ始める。一方で、軸となるモノからすれば回転しているのは自分以外のものである。
「在るが儘に在る」というのは、そうした天動説的世界観と地動説的世界観を両者とも受け入れることである。
「道を開けろ」は彼の「在るが儘」であり、「余裕があるときにはあげよう」も彼の「在るが儘」である。前者は彼が中心の「在るが儘」だ。一方後者は、私達や街の回転の中にあっての「在るが儘」である。
私というのは何者かの従者にならないほど強固な存在ではないし、軸として存在しえない――自己中心的にならないほど脆弱で謙虚な存在でもない。ある時点での私自身を固持することだけが「在るが儘」ではない。ときに在るが儘を放棄しようとすることさえも「在るが儘」なのである。
「在るが儘に在る」というのは思想でも自己啓発でも悟りでも開き直りでもない。ただの認識である。だから彼の態度は矛盾する。旅先で受けた感銘も、普段の生活に戻れば失われてしまいもする。怒り狂っていたと思えば、陰気になったり優しくなったりもする。
こうして意識的に「在るが儘」を提示した本作は、何か特定の感情を選んで描写していないという点で、ある一部を強化したり切り取ったりしていた過去作――生きにくい人間の物語だった『白くなる時刻』や怒りをともなっていた『Entry Probe』よりも自然な一般人としてのMAKKENZが表れている。
こうした一般人性をより強めているのがBuggのトラックである。彼のトラックは、本作の日常的な描写に応じているような仕上がりだ。ギターやピアノなどの生楽器と環境音やシンセ音が混ざりながら描かれる世界は柔らかく、風通しが良い。また、MAKKENZの声に強めにかかるリヴァーヴや角の丸い音が全体のフォーカスを若干ズラし、光景を曖昧にしている。まるで心地良い記憶の中の映像のようだ。
そうした音使いは、詞にこめられたMAKKENZという個人の輪郭と我々の輪郭を曖昧にする。人間の記憶はあやふやなものだ。左脳はときに右脳で得た情報から都合のよいようにストーリーを作りあげる。本作を聴いている我々の脳は、モノクロでぼやけた音のなかの彼の日常に私の日常を混入し、没入する。
過去の作品では、彼と自分の感性を重ねあわせるには、生きにくさや怒りといった感情が必要だった。一方、今作は日常という普遍的な描写が基盤となっているため、より多くのひとの心に彼の感性が染み込んでいくだろう。
『土葬水葬火葬風葬空想』以降
arai tasukuとの共作は神。
終わりです。
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