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実践資料を読んで「すごい」と思った教員と同僚になったら、もっとすごかった話


「総合的な学習の時間」とは、なんぞや

私が高学年の担任をしているとき

前の記事でも書きましたが「総合的な学習の時間」が創設されたのは、平成10(1998)年告示で、平成14(2002)年度に完全実施の学習指導要領からでした。

この学習指導要領は、これも前の記事でも書きましたが、学校5日制や各教科の年間授業時間数の変化など、学校教育にとって大きな改革が盛り込まれていましたので、内容の一部は平成12(2000)年から先行実施されていました。

ところが、私の記憶では、その先行実施の前、この学習指導要領が告示された頃に、既に「総合的な学習の時間」について学び、試行錯誤しながら実践した確かな記憶があるのです。

私は自分の「履歴書」で、その頃、どこの学校で何をしていたか、を確かめてみました。

私は、教諭として、市内の中で市役所に最も近く、県内でも明治5(1872)年の『学制』によって、その翌年「小学校」とされたという歴史と伝統を持ち、しかも、無暗に国内外からの視察者や、卒入学式などがあるときは報道機関が入るのが普通という小学校に、在職していました。

その在職6年目から7年目にかけてのときです。
その学校で3回目の5年6年の持ち上がりの担任をしていました。

今では進級するごとにクラス変えや担任が変わることが多いのですが、それが始まった頃ながら、児童のクラス変えはなくても担任はみんな変わる、というときに、なぜか、私だけ「持ち上がり」になっていました。

理由は、校長によれば、「児童の実態と保護者からの要望」とのことで、児童が要望していたということではないところがミソです。

とにかくそんなときに、職員会議か研修会で「総合的な学習の時間」の資料を配られました。
しかし誰も説明はしてくれません。

ぱらぱらと見てみると、何か不思議なことが書いてあると思い、気になって会議のあとに自分で読み始めました。

台風で倒れた木から公園のベンチを作る話

県内の教員による文章で、台風で倒れた街路樹を見た児童が、「それで公園のベンチを作ろう」と言い出して、実際に作って公園に置いたことが書かれています。

「これは教科なのか、特別活動なのか、道徳なのか。教科なら、社会か、図工か、なんだろう」

担任と学級児童の話し合いや、実際の活動などが克明に記され、倒れた木やそれから作られたベンチの写真なども入っています。

1度読んだだけではすぐにはわからなかったので、しばらく職員しつでその資料を何度も読んでいました。
それを見た同僚からは「それって何かわからないでしょう。そんなに一生懸命読まなくても、いいんじゃないの」とか言われます。

捨ててはないはずですが、手元に資料の現物がありませんのでうろ覚えで申し訳ありません。

もう25年ぐらい前に読んだ資料のことです。でも、次のようなことは、覚えています。

最初に、児童の誰かが、台風で倒れた木を、その後どうするのかと言い出したので、担任が学級で話題にした。

そのままでは廃材として捨てられるので、何か活用法はないか、ということになり、ベンチを作って公園に置けば、役に立つと話が進む。

児童たちは、それぞれが時間を見つけて公園に行き、何曜日の何時ごろには、例えば、小さい子どもを連れたお母さん、高齢者の方、お弁当を食べる人などが、公園を利用していて、どこにベンチが配置されていればいいか、まで観察してくる。

その一方で、担任は学区内の材木屋さんへ行き、倒木からベンチを作るための木材を作り出せるかを交渉してくる。

趣旨に賛同した材木屋さんが、無償でベンチを作れる木材を切り出し、それを児童といっしょに公園でベンチに組み立てるところまで手伝ってくれる。

児童が「ここにあれば便利」というところにベンチを設置して、そのあとの様子を、それぞれ時間のあるときに観察する。

すると、小さい子どもとお母さんがいっしょに座っていたり、高齢者の方々が座って雑談をしていたり、弁当を広げてゆっくり食べている人の姿がある。

ここまでの活動で、児童は材木屋さんとその仕事を知り、公園を使う人たちの気持ちを理解し、ときには「ベンチを作ってくれてありがとう」と声をかけられる。

子どもらの発案、実行する計画、実際の活動、地域の人との交流、活動をしたあとの評価を子どもたち自身がする。

「だいたいこのような内容かあ」

そう思えるようになるまで、私は、かなりの日数その資料を読んでいました。


では自分もやってみよう

まあ、何にせよ、自分が興味・関心を持ったものは、何か自分なりにできないものか、と考えるのが、良くも悪くも私の性格。

教員になって間もないころに、全国各地の小学生の吹奏楽やオーケストラの演奏の録画を見て、「小学生でもできるのか」と、前任校で県内初の吹奏楽部を創設し、ビデオで見た小学校と同じ舞台での演奏を実現したのでした。

私が、倒木からベンチを作る資料をずっと読んでいたことを、その当時の校長先生は知っていました。

「伊東君、何かやってみるか」
「でも、倒木もないし、そもそも子どもたちからの発案がなければ、ここまでは無理です」
「そう。それで正しい」
「あっ」

そのときになって私は、やっとつながったのです。
その年度はまだ土曜日の授業が昼までありました。
ところがその土曜日に「総合的な学習の時間」という長々しい教科名の授業時間を入れることと指示されて、とりあえず時間割に「総合」などと書いていたのです。

「このベンチの話が、あの、総合的な何とか、ですか」
「そうです」と校長先生はにこにこした顔で言いました。
よくある陳腐な表現になってしまいますが、思い出すと、職員室でそのように校長先生と会話し、校長先生は実際ににこにこしていたのです。

私は当時は高学年の担任をすることが多く、前任校のときから「個人日記」を毎日の宿題にしていました。

「今日は友だちと遊んで楽しかった、というような一文だけでもよい。ねむかった、という5文字でもよい。とにかく毎日書いて提出すること」

40人学級の時代でほぼいっぱいのことが多かったので、朝に集めた「日記」を下校のときに必ず返すのが大事なことで、ときどき、同じようなことをやる同僚もいましたが、たいていは2冊を交互に使っているようでした。

この「日記」は同じものを毎日使うから意味がある、と私は思っています。
けれども、男子は本当に一文とか5文字のことがよくありますが、女子は5年生の後半から6年生になってくると、何ページも書いて来る者が増えてきます。
しかも内容がかなり深刻なものもあります。

私がこれを始めた理由の一つは、40人近くの児童と一日をほとんど過ごしていても、どうしても一言も会話しない児童がいるので、それを避けたかったからです。

日記には、家庭や友だち関係などの個人的な内容も多く、当時も「子どもたちも大変なんだな」とよく思ったものです。
それはそれで、個人の悩みを聞いたり、ほっておけば「いじめ」になるようなことを未然に防いだりすることも、日常的にあります。

また、新聞記事や、登下校の途中で気づいたことを書いてくることや、自分が想像した宇宙のことなどを書いてくる児童もいて感心させられることもありました。

「校長先生、その、総合、という時間は、何をやってもいいのですか」
「まあ、子どもたちにとってふさわしい学習になるのなら、といっても、私にもまだよくわからないのだ。安全で誰かに迷惑をかけるものでなければいい、ということになるかな」
「それなら、たとえば、その授業中に校外に出てもいいのですか」
小柄、は余計ですが、小柄な割には太っ腹で度胸のある校長先生は、
「いいですよ」
という返事。

そのとき、私の頭には「日記」に書いてあった2人の指摘が思い浮かんでいました。

1つは、学区を流れる川が全国的でワースト5に入る汚れであることに衝撃を受けた、というもの。
もう1つは、城跡の堀の中に、自転車やゴミ箱などの粗大ごみがたくさんあって気になる、というもの。

「校長先生、総合、というものをやってみます」
「たぶん、君がそう言うと思ってました。楽しみです」
校長先生はにこにこした顔で言いました。


先生、授業中に釣りに行ってもいいの

校区の橋まで釣りに行く

日本でワースト5に入るほど、みんなが知ってる川が汚れている。

「日記」に書いてきた児童に「みなに紹介してもよいか」と確認をとってから「総合的な学習の時間」で全員でまずそれを話題にしました。
「日記」に書いてきた児童が、それを報道している新聞を持ってきてくれたので、記事の大きさや、生物が生きることのできない汚さである内容などが全員に衝撃を与えました。
新聞の記事には、水質を調べた場所、国道の橋から少し離れた細い橋の名前まで載せられていました。

「でも、あの橋で釣りをしている人がたくさんいるよ」

その橋の近くに住んでいる児童の言葉でした。
人と自転車しか渡れない橋では、潮時になると橋にならんでハゼを釣っていると言います。

「釣ったハゼを釣った人たちはどうするのか」が話題になりました。
「食べているらしい」
「汚い川に住んでいるハゼなのに、食べて大丈夫なのか」
「だいたいどうしてこんなに汚い川にハゼがいるの」

全員がそれぞれに自分の思いや考えを持ったところで時間となりました。
ちょうどよかった。
というのも、私は、担任としてこのあとの展開の可能性を確認しておかねばならないと考えていたからです。

まず放課後に、なるべく児童と会わないようにして、学校からその橋まで歩いてみました。
行ってみるとしたら、安全な道が確保されるかどうかは重要なことです。
また橋で釣りをしている人を実際に見ておくことも大切です。
その橋の上では、年配の男性たちが、だいたい5mから10mほどの間隔で場所を取り、釣竿を出していました。
そのときはどの方とも話さずに、様子だけを見て帰りました。

次に校長先生の許可がでるかどうかです。
児童の着眼から始まり、全国的な話題となっている河川汚染のことが学級全体の話題となったので、「総合」の授業時間に釣りに行ってもよいか、と尋ねました。
「いいですよ。くれぐれも安全だけは気を付けて」
校長先生はにこにこした顔で言いました。


土曜日の授業中に学校を抜け出す子どもの気持ち

「今度の土曜に釣りに行く」と伝えると
「午後は用事がある」などと子どもたちは口々に言いいます。
「午前中の授業時間中に行くから、大丈夫」
子どもたち全員が私の顔をじっと見つめます。
「それって、大丈夫なの」
「授業中に学校の外へ出たらいけないでしょ」
大騒ぎになりましたが
「校長先生に、きちんと許可をもらっています」
「えっ、それは本当か」
「釣りってどこまで行くの」
「釣りなんかしたことない」
とまた大騒ぎになります。

学級全体が、係り活動などで6つの班に分けてありますので、今回はその班で行くことと、釣りに必要な道具とそれを用意する者は、各班で相談して決めることだけを伝えて、あとは班での相談させることにしました。

釣りに行く土曜日になりました。
どの班もとりあえず1本は釣り竿があり、糸や針などの、釣りをするための最低の道具も持ってきていましたので、内心ほっとしました。
魚が連れたら入れるためにと、小さいバケツも持ってきている子も各班にいました。

面白いのは釣りのエサです。
ゴム製の疑似餌(ワーム)、大き目の疑似餌(ルアー)、何かの缶詰、パンくず、何もなし。
ゴカイやイソメなどの、生きたエサを持ってきた班はありません。

昇降口へ移動して班ごとに整列させると、何かいつもとは雰囲気が違います。「本当に授業中に行ってもいいのかな」などの声もします。
そこに校長先生がやってきました。
「みんな気を付けて、たくさん釣ってきてくださいね」
校長先生はにこにこした顔で言いました。
それを聞いて、子どもたちの顔はさらに真顔になります。

校庭を歩いているときに列を乱す者は誰もいません。
それどころか、ほとんど誰も声も出しません。
当時は土曜日も普通に学校がある日です。
その土曜日に、授業中に学校の外に出て、しかも、釣りをする。
これは、子どもながら、何かとてもいけないことをしているような気がしているようです。

校庭を出て、広い歩道のある道を通り、国道を渡って再び広い歩道を歩いているときも、子どもたちはお行儀よく歩いています。
国道の橋の手前で川沿いの路地に入ったところで、ようやく少し緊張感が解けたようで、「釣れないに決まっている」「一匹ぐらいは釣れる」などと声がし始めました。

目的の橋について、「橋の上からは向こうにもこちらにも出ないことと、橋を通る人のジャマにならないように気を付けるように」と伝えて、活動の開始にしました。


釣りに出てみて学んだこと

実のところ、私自身、この釣りの活動が授業になるのかどうか、半信半疑でした。

ただ、よりどころは、あの、倒木から公園のベンチを作った授業の記録だけです。
そこから読み取ったことは次のようなものでした。

子どもらの発案、実行する計画、実際の活動、地域の人との交流、活動をしたあとの評価を子どもたち自身がする。

発案はある子の日記から学級全体への広がりで、実行する計画も子どもたちでやりました。
私は、現地と現地までの安全を確かめただけです。

さて、私たちが着いたときは、釣りをしている人が3、4人いました。
子どもたちは、それぞれに場所を決めて、班ごとに釣りを始めます。
釣り竿を持っているのは男子ばかりで、女子は見ているだけです。
そのなかで、ワームや缶詰などの班は「何かが引っ張った」とか言っていますが、パンくずはすぐになくなり、エサのない班は辺りの草などを針につけているので、釣れません。釣れる訳がありません。

私は、橋の上を行き来しながら、子どもたちの様子を見ているだけです。
一つの班の子どもたちが、橋のたもとの方で釣っている初老のところへ行きました。その方は、私たちが着いてからもたくさん釣っています。

そしてその方から離れて、すこし川の端の方に移動して、また釣り始めました。すると、すぐに釣れたのです。

その子どもたちがあまりにも喜んでいるので、釣っていた人たちの方から、子どもたちに声をかけてくれるようになります。

「パンでハゼが釣れるわけがない」
「ワームやルアーでは釣れない」
「エサを持ってこなかったのか。これを付けてみなさい」

うねうねしている立派なゴカイをもらって、それを見守る子どもたち。
「見ていないで、そいつを、短くちぎって針につけて、川にいれるんだよ」

経験のある子どももいます。気合だけの子どももいます。
いずれも男子だけですが、とにかく言われたように、半分目をつむりながらゴカイをちぎり、針につけて、川へ入れます。

比較的海に近い場所で潮の干満に水位が左右されやすいところで、かなり水深は浅くなっています。

地域の人たちと結びつく、ということが自然に起こっただけでも楽しい気持ちになっていた私は、この先、もっと感動する場面を見ることになります。

エサをもらって針につけて川に入れていれば、もともとハゼの釣れる場所ですから、だいたいどの班も手応えが始まったようです。
そして、あっちで一匹、こっちで一匹、とハゼが連れ始めました。

しかし釣りをしているのは男子ばかりで、女子はエサのゴカイが気持ち悪いと尻込みしています。
釣れたハゼのためにもってきたバケツに水を入れて、男子が一生懸命になって針をはずして中に入れたハゼを見ています。

ちょっと自慢をします。
この6年生たちも私が5年生から担任して来た子どもたちです。
担任のことをどう思っているのかはよくわかりませんが、とにかく学級をうまくまとめることができたので、いじめもなく、けんかもなく、何より男女の仲が普通に良いのです。

一人の女子が釣り竿を持っている姿がありました。
「わあ、わあ、わあ」とその子は、釣り竿を持ちながら笑顔で大声を出しています。
「どうしたの」
「〇〇君が、ハゼが食いついたから、持ってみよと言って、持たせてくれたの。そうしたら、ハゼが引っ張ているのが伝わってくるの」
私が、その子の喜び以上に「〇〇君」の粋な計らいに感動したのは言うまでもありません。
女の子たちは、釣り竿を順番にもって、糸の先のハゼとやりとりします。

こういうことは、ほかの班にも伝わるものです。
あちこちでそれまでは尻込みしていた女子たちが釣り竿をもち、ハゼとつながり、とうとうハゼを釣り上げる子もいます。

そのあとがすごかった。
一度ハゼを釣り上げると、もう次もやりたくて、ゴカイをちぎっている女の子がいます。
自分でゴカイを針につけて川へ投げ込む子もいます。
そこまでできなくても、釣られたハゼを針からはずして、バケツに入れて様子を見ている女子もいます。
男子は、そうやって女子たちが、釣りに積極的になる姿を見て、なぜかうれしそうに見守っています。

気が付くと、釣りをしていた男性の人たちは、みんないなくなっています。釣りをしていた皆さんは、準備も釣り方もきちんとできていない子どもたちに、持っていたゴカイなどをみんな子どもたちに分けてくれて、釣り方やハリのはずし方を教えてくれて、自分たちは今日は釣りを切り上げたようでした。

ご挨拶もできないままでした。
川の水の高さも上がったようで、潮目も変わったのかも知れません。

それにしても、地域の方々と子どもたちの交流や、全員が釣りを経験できるように配慮した男子たちの態度など、予想していなかったことが短い時間に次々と起こりました。

今なら携帯電話で、写真や動画を撮るような、とてもドラマティックな時間でした。

そして、次の一言が、女子の一人から発せられます。

「なんだかさ、ハゼもだんだん弱ってくるし、エサの虫もちぎられて食べられるし、みんなせっかく生きて来たのに、こうして死んでいくんだと思うと、かわいそうだよ」

この言葉で、学級の全員の子どもたちの活動が止まりました。
魚も住めない汚れた川と全国に報道された場所で、たくさんのハゼが生きているのを知り、それを生きたエサで自分たちが釣りあげた。

「もう帰ろうか」
私が声をかけると、子どもたちは素早く片付けました。
どの班のバケツにも、ハゼが入っています。
しかも、そのハゼたちは、当然ながら、バケツの中で一匹一匹と死んでいきます。

きちんと整列して、歩き始めました。
「たくさん釣れてよかったね」
私が声をかけても、子どもたちに笑顔はありません。

来るときよりもさらに大人しくなって、まるでハゼを弔う行列のようになって、学校まで戻りました。

時間だけはちゃんと管理していたので、「総合」の授業時間の終了しょしょくいんしn校に戻りました。


活動をしたあとの子どもたち

正直に言って、私は、「総合的な学習の時間」というものは、このように子どももらの発案と計画で活動して、その様子をこちらは見ていればいい。
あとで、感想でも書かせて、それを評価すればよい。

と思っていたのです。それで私は職員室で休憩してから教室へ向かいました。子どもたちは下校の用意と「帰りの会」をしているはずです。
階段を上りながら、釣って来たハゼをどうするかな、などと私は呑気なものでした。

教室まで近づくと、何やら気のせいか、普段の授業よりも真剣な雰囲気が漂ってきます。
そして、教室に入るや否や、児童が何人か私のところに来て
「模造紙を下さい」
「何、何をするの。月曜でいいのか」
「今すぐ下さい」

「わかった」と私は職員室の近くにある文具類のあるところへ行って、模造紙をちょっと大目に持って教室にもどりました。

それを各班の要望の枚数だけ配って、子どもたちの話を聞きました。
今日のハゼ釣りの壁新聞を作ることにした、と言います。
私には、不覚にも全くの予想外のことでしたので、嬉しいような、何かそれ以上の子どもたちの気迫に押されるような感じがしました。

「もう話し合いはだいたいすんだので、先生は連絡を、いつもの百分の一ぐらいの短い言葉でやって、帰りの会を終わってください」
「わかった。それで、ハゼはどうするの」
全体で大小で50匹ぐらいになっていました。
「みんなで話し合って、〇〇君が全部持って帰ることになりました」
「一人で全部、か」

驚きながら、〇〇君の方を見ると、いつも大人しい彼がにこにこしながら頷いています。
「〇〇君は、持ち帰って、ハゼを食べれるかどうか試してみるそうです」
「食べるのか、大丈夫か」
〇〇君は、また、にこにこしながら頷いています。

「最初は川にもどそうと言う意見も多かったのです。でも、それでは、ハゼを釣っている人たちの気持ちがわからない。それで分けて持って帰ろうということになったのですが、家で家族に何を言われるかわからない、という人ばかりでしばらく困っていたら、〇〇君が、ぼくの家なら大丈夫と言ったので、それで〇〇君に全部持って行ってもらうことにしました」

これで、私が普段から、国語や算数などでどんな授業をしているのかが、いくらか伝わると思います。
専科もやってきた音楽でさえ、ほとんど私の出る幕はない。
かろうじて、社会の歴史と理科の実験だけはこちらが主導権を握って、子どもたちに奪われないように工夫しますが、それ以外は、主体的によく考える子どもたちになっていました。

つまるところは、よほどこの先生は頼りない、と思われているのでもあるのでしょう。
道徳の時間や運動会などの練習、人権教育の活動など、何をすべきか、というところから、子どもたちから課題提起があり、それぞれの立場で意見か活動が進み、互いを尊重しながらとりあえずまとまる。

私は今でも、担任したどの学級の子どもたちにも、本当に恵まれたと思っています。
昨今話題の、落ち着きのない子、他者にきつい子、仲良しで固まりたがる子どもたち、特別支援の子、家庭の重い問題に毎日潰されそうになっている子など、どの学級にもいました。
でも、たまたま集められた子どもたちが学級として学校の集団生活をするのではなく、この仲間と出会ったからできることがあると子どもたちが毎日を期待できる学級にすることが大切だと、新年度が始まってから5月の連休までに、あれこれいろんなことを子どもたちとするのです。

このような、いわゆる、学級経営については、私の実践をいずれ紹介します。

ハゼ釣りの話題に戻します。
帰りの挨拶をすると、それぞれが荷物を持って下校します。
しかし一部の子どもたちが残って、もう壁新聞を作り始めています。
「何をしてるの」
「釣ったハゼを模造紙に写しています」
なるほど、その班が釣ってきたハゼが、模造紙に「魚拓」のように書き写されています。
今なら、タブレットか何かで写真を撮れば一瞬でしょうが、そのときは確か平成11(1999)年のことで、まだそのようなものはありません。

でもこうして当時を思い返せば、
タブレットで写真を撮って、印刷して模造紙に張り付ける、または、それぞれのタブレットに配信したり電子黒板などに映したりして教材にする
というようなことより、
床の模造紙に何人もが這いつくばるようにしてハゼを書き写す作業そのものに、
私は価値があるようにも思われるのです。

時間がかなり遅くなったので、ハゼを待っている〇〇君のこともあるので、一通り描いたところで、子どもたちを下校させることにしました。

そのあと、学校に近いところに住んでいた〇〇君のところまで、いっしょにハゼを持って帰りました。
あいにく、お母さんが外出中だったので、あとから電話をして、事情説明と無理をなさらないでくださいとお伝えした記憶があります。
「いえいえ、うちでは喜んでいるんですよ。いろんな食べ方を試してみますから、楽しみにしていてくださいね」

普段から、学校での学習のほかのことにも、家中で興味や関心のあることには取組むご家庭だったのでした。
それもあって、〇〇君は、50匹のハゼを持って帰っても、自分の家なら大丈夫だという自信もあったのでしょう。

月曜日は、子どもたちからの強い要望で、朝から壁新聞作りでした。
私は、他の教科は「担任の権限」で振替えをすることもありましたが、体育だけはどんなことがあっても時間割通りにやっていました。
その反対によく音楽を「君たちの能力はもう普通の小学生をはるかに超えている」という理由でよく国語や算数に振替えをしていたので、よく文句を言われていました。

まずは、〇〇君からの、ハゼの料理の報告をみなで聞きました。
土曜日の午後に図書館に行って、ハゼの料理に関する本を借りてきて、いろんな料理を試してみたそうでです。
確か、結論は「唐揚げが一番美味しい」だったと思います。
日記にも、〇〇君の文章の下に、お母さんから
「たくさんいただいていろんな料理を家族みんなで楽しめて、ありがとうございました。学級の仲間にもよろしくお伝えください。」
とあって、恐縮しました。

壁新聞は、〇〇君の家で研究した食べ方を中心にしたもの、河川で生きている命を大切にするために汚染を少しでも早く解消したいというもの、命の尊さに関するもの、書き写したハゼの一匹一匹に名前をつけてハゼの気持ちを考えるもの、河川の汚染についてその内容や全国的な傾向をまとめたもの、ハゼの釣り方やそれを教えてくれた地域の人のことを書いたもの、など私は感心させられるものばかりでした。

出来上がったものから、教室の外の廊下側の壁に貼っていきました。
最下位上の廊下の一番端の教室でしたので、残念ながら、多くの児童や教師に見てもらえなかったような気がしています。
かなり長く保管していたのですが、模造紙が劣化したので捨ててしまったと思います。
写真を撮らなかったのも、もったいないことをしました。

隣の学級の同学年の担任からは
「最初はあっちだけ授業中に釣りに行ってずるい、と子どもたちが最初は言って困ったけれど、壁新聞を見たら子どもたちが何も言わなくなった」
と聞かされて、なんとなく、してやったり、という気分になりました。

その日に提出された「日記」には、さすがに全員が「ハゼ釣り」のことを書いていて、普段は一行や5文字の子どもも、3行、5行、10行などありましたので、下校までに読むのが大変だったのも思い出します。

校長先生やちゃんと見てくれていました。
「さすがに伊東先生の学級の子どもたちですね。いい総合的な学習の時間の学習になりました」
校長先生はにこにこした顔でそう言いました。


研究授業や授業分析のだいご味

いよいよ本題に

またまた予想よりも長い文章になってしまいました。
もともと、倒木から公園のベンチを作る、という活動の資料を読んで、私も何かやってみたい、と思ったところから始まったのです。

この学級の子どもたちはその後も、人権学習で知った識字学級の方と文通したり、卒業式当日に、私へのお礼の歌を録音するために行方不明になったり、あれこれと多彩な姿を見せてくれました。

この年の卒業式でも、私の学級の子どもたちは男女関係なく、みんな泣きました。それも、卒業式の後半の、みんなで思い出を語り思い出の歌を歌うという場面で、もうほとんどの子どもたちの目から涙がぽたぽたと落ち始めたのでした。男子などは、それを隠すように顔を上にあげてふるので、余計に気持ちが伝わってきます。
私の担任した6年生は、ありがたいことに、卒業式ではどの学級もそうなりました。

保護者の方からも
「こんなに毎日、学校行くのが楽しいと言い、帰ると学校の話をずっとしている子どもの姿を見て、本当に幸せでした。ただ、こんなことは本当に珍しいことで、この先はそんなに甘くないと思っています。それだけに、先生が担任だったこの時期だけでもこんな月日を送れてよかったと思います」
などのような、冷静で、しかも、こちらは穴があったら入りたいような言葉を何回も何人からもいただきました。

でも、きっと、そうではなかった子や家庭もあったはずだと、今も思います。まだまだ、学ばなければならないことはたくさんある。

この卒業生たちといっしょに、私もその学校を、卒業しました。
次の学校では、最初から音楽を中心に、事情のある教師のために、体育、理科などの専科でした。
しかしその学校にいたのはたった2年間で、子どもたちが音楽を大変好きになってくれた頃だったので、子どもたちから「裏切り者」とののしられました。

教員の異動(転勤)は基本的に断れません。しかし告げられた時期が通例よりも早かったので、何か特別なことがあると思いました。

「附属小学校への異動の打診が来ているが受けるだろう」
校長になる年齢が若くなり始めた頃に校長から告げられました。
「断れますか」
「基本的には、断れない」
「では一晩だけ心の準備をさせてください」

この「一晩」の事情はかなりややこしいので、また別のところ、たとえば不思議な連作をしている「20歳差の夫婦 人生いろいろ20年」に関連したもので、書くこともありそうです。
今回は「一晩」に留めて、翌日には
「私でお役に立てるのなら、行かせていただきます」
と答えたことだけを書いておきます。

それに対する校長の言葉が面白いものでした。
「もともと断れないものだから、一日待ってやれたが、早速報告しておく」
そして私は、もう附属小学校だと思いこんでいたところに、しばらくしてから、校長から
「附属小学校への異動になった」
と改めて告げられたので、私の「一晩」と同じようなことが他にもあったのではないか、と思われます。

平成14(2002)年度から附属小学校の教諭になりました。
平成10年に改訂された学習指導要領が完全実施になったときは、私は附属小学校にいたのです。
学校5日制は、それまでに私のいた学校で実施されていたのかどうか思い出せません。

この附属小学校では、最初に副校長室で、授業研究する教科の確認、という儀式があります。
私は、音楽の専科、ということでしたので、音楽だと思っていましたが、あとになって担任が、音楽や図画工作や家庭などの授業研究をすることもあるのを知りました。
また、公立学校で、算数教育を熱心にやっていたのに、附属小学校に来たら、生活の授業研究をやることになった、とか、国語をやっていたのに体育になった、とか、前任者の穴埋め的な要素もあることも、あとから知りました。

私は、家庭と書写を除くどの教科や活動でも初任のときから授業研究をしてきていましたので、授業研究ができるのならなんでもよかったのです。
それでも、同期での者から、「これまでの経験が活かせる教科になってよかったな」というようなことを言われました。

ちなみに、この附属小の場合は、同年度に異動した者で年齢を超えて、そのような体育会系のような風習があり、これは、年齢と関係なく前か後かで、まるで大学生の序列のようなものが強くありました。
私の同期は、私を含めて5人で、他の4人は私より若い男性で、通勤時間も相当に長い人たちでした。
私の場合は、ハゼ釣りの活動をした学校から附属小学校がすぐ見えていて、しかもどちらも自宅から相当に近いのでした。
4人は、国語、体育、社会、生活の授業研究でした。

驚いたのは、社会を担当する若い教員が、私の大学の恩師に紹介された社会科教育の大家で、私が校内研修のときに講師としてお願いをして、授業記録の取り方や見方を強く影響を受けた先生の息子であったことです。
また、私も含めて5人とも人権教育で何らかの発表に関わった経験があり、これは当時の附属小の実態からすると、意図的に集めたとも考えられました。

当時の附属小学校の授業研究について説明し始めると、またさらに長くなります。極めて簡単に言います。

最初に3つか4つのグループに分かれて研究会を持ち、そのあと全員による研究会になります。全員の研究会は、毎週あります。
指導案は、グループでも全体でも、たいてい袋叩きに合って、何度も書き直しになります。
それも、本当に、重箱の隅をつつくようなことを、何カ所も指摘されます。
私は、それを全部吸収して説明も加えていたので、最高20回くらい書き直したことがあります。
「まだ足りないのなら、子ども一人ひとりについて40通りの指導案を書きますが、検討していただけますか」
私の指導案は、書き直すごとに枚数が増えるので、A4用紙裏表印刷で20枚になることもよくありました。

「伊東先生は、もういいです」
あれまあ、つまらない。

後から聞いた話では、新米のくせに先輩の指導案に注文をつける、とか、後輩の授業研究に対して厳しい批判をし過ぎる、とか、私はウラでそのようなことを言われていたようです。

私にしてみれば、言いたいことの10分の1ぐらいにしていたつもりだったのですが。
それにそれまでにいた公立学校のときから、私の基本的な授業研究の取り組み方や検討会で指摘の仕方などは変わっていませんので、思えば初任のときから、大変「やっかいな」人間だったようです。
附属小学校では、議論してくれる相手がいるだけ、私には張り合いを感じたものでした。

ただ、時間はむちゃくちゃでした。今の「働き方改革」から言えば、完全な残業だらけです。夜の7時、9時、11時、ひどいときは日付が変わってから、グループ検討会が入るときもありました。
遠方の同僚の中には、学校の宿直室を借りたり、近くの宿泊所に泊まったりする者もいたようです。

一つだけ断らなければならないのは、全国の国立大学附属学校がこのようである、とは決して言えないということです。
私はほかの附属学校の実態を知りません。
また私のいた附属小学校も、私が新米のころはそうでしたが、年数が経つにつれてそのような異常なことは、なるべく少なくしました。

7時からあとは研究会を入れない。
指導案は8ページ以内にする。

これらを、私が研究の担当者になったときには、強く呼び掛けました。

それにしても、あの当時、新米だった私は、勤務時間の終わる5時ごろには学校を出ていることも多かったのです。
これも最初の学校のあとは、勤務時間の終わりに帰ることをいつも心がけていました。
そのあとに、高校の部活や社会人の音楽活動の指導があったからです。

私が附属に異動した2年後に、遠方から、社会の授業研究で有名な教員が異動してきました。

背の高い温厚な男性で、様子を見ていると、どの教科の授業研究のときも、適格な指摘をしています。
これまでにもどこかで述べたように、私は専門は教育史で、教育方法は社会科の授業分析で全国的に有名な方に学びました。
それで、その新しい背の高い教員の発言の趣旨が、いちいち納得できたのかも知れません。


授業研究が変わる

それまでの授業研究は、指導者の教材研究や準備、実際の授業での指示や発問の仕方、活動の方向付けなどと、もっぱら、指導している教員に関することがほとんどでした。

私は、そのとき子どもは、どのようなことを考えていたか、どういうつぶやきをしていたか、何をやっていたか、やろうとしていたか、どういう気持ちであったか、などを観察していました。

はっきり言えば、指導案を見た時点で、私にはその教員がどのような授業をするかがほとんど想像できてしまうのです。
しかし、実際には、指導者であるその教員の思惑とは別のことが起こっているのが授業です。
だから私は、初任から5年目ぐらいの頃から、授業でもっとも重要なものは、観察力、洞察力、想像力、そして即興的な創造力だと、自らの授業改善をそれを軸に行っていたのでした。

しかしそのような感覚で、研究授業の参観をし、事後の検討会で子どもの姿や考えや気持ちについて語っても、全体研究会では、何か的外れなことを言っているヤツ、という雰囲気になります。

よく覚えているのは、ある教員の算数の授業です。
指導案にもあったように問題を子どもたちに解かせて、そのやり方の中から、みなが陥りやすい「間違い」をしている子どもを見つけます。
そしてその子に「間違い」のやり方を発表させ、そのやり方の「間違い」について全員で話し合わせます。
この話し合いがこの授業の中心で、指導者の教員の腕の見せ所、といった感じです。
そのようにして、同じような「間違い」をしている子どもたちに「間違い」と、それに陥らない方法を気づかせる。

この授業は、指導案通りに進み、授業としては、指導案通りに進んだよいものであった、というような評価を全体研究会でも異口同音に言われていました。

しかし、私は、知っていました。
最初に「間違い」のやり方を発表させられた子どもが、他の子どもたちからの「間違い」の指摘や、正しいやり方についての発言があるたびに、その子の身体が机の上に倒れ込むように縮こまり、まるで泣いてるか怯えてるかしているように、小刻みに震えていたのです。

私はそのことを言いました。
「多くの子どもにとっては学習になったかも知れないが、その課題提起をさせられたあの子は、今回の授業でどんな気持ちであっただろう。ずっと、悲しい気持ちで、算数の学習どころではなかったのではないか」
そして
「このような、どの教科にしても、ある子どもの発言や表現や考え方を、いけにえのようにする活動を、果たして授業としてよいものと言えるのだろうか。同じようなことをしてしまっていることが、私たちにはないだろうか」
と言いました。

かろうじてよかったことは、私の言ったことを一番理解したのは、この算数の授業研究をした教員本人であったということです。

あとになってから
「実はあの子は、その日は帰るまで他の授業のときも、ずっと下を向いたままで、辛くて悲しい、という気持ちをこちらに伝えていたのでした」
と目を赤くして彼は言いました。

それまでは、このような授業が「よい授業」のように言われていることがしばしばだったのです。

背の高い温厚な社会専門の教員、この教員を「M先生」と呼ぶことにします。
私よりも若いM先生は、授業研究会での話し方も柔らかく、相手を傷つけないように配慮しながら、私の考えのようなことをうまく伝えます。
私が言わなくても、M先生が言ってくれる、というような気分になるほどでした。
私はどうしても、教員相手には授業のプロとして、厳しく言ってしまうのでした。

M先生のおかげで、授業研究や全体研究会が変わってきました。
特に「参観者は授業している教員よりも子どもの様子をみよう」という方向に変わりました。
指導案を読んで、その中から「では自分はこの子」「こういう考えを持つ子」「こういう活動をする子」など、子どもを選ぶのです。

授業する教員が課題として設定しいることや授業の進め方を、その課題と最も結びつきの強いと紹介されている子どもたちや、子どもの考え方や活動から、評価しようというものです。

これで、参観する教員が観るものが、授業をする教員から、子どもの様子に変わりました。

すると、授業研究やその検討会など、全体が以前よりも和やかな雰囲気になるのも不思議なことで、あらためて、授業研究とはこういうものかと思いました。

あるいは、研究授業と呼ばれるものも、そうでしょう。

附属小学校は教育実習生も毎年たくさんくるので、時期になると研究授業が毎日いくつも組まれます。
そして最終的に教育実習の評価を左右する研究授業のときは、多数の教員と大学生、そこに大学の指導教官も加わって、検討会を行います。
私は、そこで、実習生の指示や指導のことをくどくど言う同僚と、その反対の立場から何度も公開の場でやり合ったことがあります。
あとから大学の指導教官に「涙が出るほど感謝します」と男女を問わず言われて面食らったこともたびたびでした。
これもまたの機会にします。


どうもそんな気がして来たので

その頃からさかのぼれば、もう5年か6年、いや、資料を読んだのは7年前かも知れません。

あの、倒木から公園のベンチを作る活動の様子の書かれた資料にあった教員の勤務地と、M先生が住んでいるところが同じ方面なのです。

しかも活動の持って生き方が、社会の授業と似ているところがある。

私はあるとき、私としてはちょっと控えめに、M先生に声をかけました。

「以前、総合的な学習の時間の例として、台風で倒れた木からベンチを作って公園に置くという資料を読んだことがあって、最初は何がなんだかわからなかった」
M先生はにこにこした顔で黙ったまま聞いています。
「でも、とても気になったので、子どもたちの発案で川へ釣りに行ってみるということをやってみて、公園のベンチの活動の意味が少しわかったような気がしたことがあった」
M先生の表情が一層柔らかくなったような気がしました。

「ひょっとしたら、あの公園のベンチの資料は、あなたがやったことを、あなたが書いたのではないですか」

M先生は何も返事をしません。
ただ、こちらに、ものすごい笑顔を向けています。そして、
「公園のベンチ。台風で倒れた木を材木屋さんに切ってもらって、公園のどこに置いたらよいかを子どもたちが調べて、置いてみたらたくさんの方々に使ってもらえた」

「あなたがやったことでしたか」
「何かやってみろと言われて、たまたま子どもたちが台風で倒れた木をどうするのかと心配していてたんで。でも、大した活動にはならなかったな」
「いや、やはり。なるほど。なんかあれこれ腑に落ちた」
「あれを読んで、川に釣りに行ったの」

私は、ハゼ釣りの話を、子どもの着眼から子どもの計画、実際の活動と地元の人との交流、活動を終えてから子どもたちの希望で壁新聞作ったことなどを、ざっと伝えました。

「伊東先生みたいな人もいるんだ。それにしても、遠いところの人まで読んでいただいていたんだなあ。随分前のことなのに、今になって恥ずかしい」
M先生はにこにこした顔でそう言いました。

私は、心の中で、資料もすごかったけれど、それをやったこの先生は、本当にすごいだな、と相当に感動していたのです。

でも、その後、ときどき「さすが、ベンチのM先生」と言ってしまうのが、私の悪い癖です。
そういうときは
「本当にあの頃は、総合的な学習の時間とは何かとすごく悩んでいただけで、言われると恥ずかしいので・・」
M先生がにこにこした顔で言いますので、私も控えるようにしました。

ここであらためて振り返ると、ハゼ釣りをした6年生といっしょに卒業した私が次に勤めた学校では、生活と総合的な学習の時間の研修をしていました。
ほとんどが「どうも違うな」としか見えません。
社会と図工をくっつけたような活動を、教師主導でやっている、というものばかりでした。

思い出しました。
6年を担任していた若い男の先生が、子どもたちを分散させて、学区の一人暮らしの高齢者の家に遊びに行くという活動をしていました。
発想も子ども、一人暮らしの高齢者の家を見つけるのも子ども、そしてそこへ2人ぐらいずつに分かれて遊びに行くと、家の掃除や買い物などの手伝いをするようになって、地域全体に活気が出て来るというものでした。
しかも、子どもが遊びに行く前に、一件ずつその担任は、そこに住んでいる人に会いに行って、許可をもらった家だけにしぼり込んでいました。

この若い教員とはそれまでにも話す機会が多かったので、ときどき相談に来てくれたので、公園のベンチの資料から読み取ったことや、自分が子どもたちとハゼ釣りをして感じたことなどをもとに、やれるだけやってみるとよいと励ましていました。

ただ、他の教員から
「ものすごく喜んでいる高齢者もいるので、これでこの活動は終わりました、と言ってすむことではない。と言って、次の6年生で、それを引き継げるかどうかもわからない」
という声が出て、私もそれがわかっていなかったことを大変反省しました。
大変、その後が気になりましたが、そのまま、附属小へ私は転勤してしまったのでした。

あとから聞くと、その後も、小学校を卒業した子どもたちがおりにふれて自分が行っていた高齢者の方のところへ行って、この活動が、地域の一人暮らしの方々への関心を高め、助け合いにまで発展する場合も多かったそうです。


授業研究の一つの例(研究授業も同じ)

さて、私が1年生の学級で授業研究をしたときのことです。
歌詞に合わせて、歌い方を工夫するという授業を、全教員に観てもらっていました。
普段は余り積極的に発言しない男子が、「大きい」という歌詞の部分は大きく歌ってみよう、と子どもたちのほとんどが言い出したときに、手を挙げたのです。

「ぼくは、そこを、小さな声で歌ってみたい」

私は正直に想定外でしたので、黙って見ているしかありませんでした。
子どもたちから、その意見に対して、否定的なものがいくつも出てきました。
それでもしばらく黙っていました。
「一度、小さい声で歌ってみようよ」
子どもの誰かが言いました。

私は内心ほっとして「では、やってみましょう」と子どもたちに歌わせてみました。
とってもきれいな声と確かな発音。
何より、歌ってみたあとの、全員の笑顔。
もちろん、提案した男子もすごく満足そうでした。

この後の展開は、子どもたちの話し合いで、この部分は「やはり少し大きい声で」ということになりましたが、そのあとの部分で、歌詞には「大小」を具体的に連想させる言葉がなくても、
「小さい声で歌う場面をつくりたい」
という雰囲気が生まれていて、実際に、そういう場面を作って歌うようになって、授業が終わりました。

事後検討会は、当時流行し始めた、授業の録画を見ながら、気の付いたことや意見のある場面になると、画面を止めて検討する、という方法で行いました。

意見や話題として出されたのはのは次の2点でした。

1つは、あの「小さい声で歌いたい」という意見が出てから、子どもたちが立ち止まって考える時間をしっかりと持てたことがよかった、というもので、これは主に私の指導のことについてでした。
先にも言いましたように、内心は冷や汗ものでした。
それでも、私もどうなるのか、しばらく子どもたちの意見を聞きたいと思ったのも事実でした。
それで、こういう場合によく私がやる方法、時計を見て「あと何分はこのままの活動にしよう」ということをやったのです。
そのときは、5分ほど時間を持ちました。
もちろん、子どもたちの意見が、「小さい声で」と言った男子を攻撃したり内容を強く否定するものにならないように、大変気を配っていました。

もう1つは、「小さい声で」と発言した男子のことです。
それを言うまでは、ほとんど歌わずに、机の上で手遊びのようなことをしていたそうです。
私は気付いていませんでした。
気になる子どもを見つけて観察する、という方向になったので、目に留まったその男子をずっと見ていた教員がいたのです。
そしてその教員が言うには
「あの子は、発言するまで、授業に入っているのかどうか不明だったが、自分の意見をみんなが話し合い、一度小さい声で歌ってみてからは、最後までずっと授業に参加していた」
とのことでした。

そのような発言が一通りあったあと、M先生が一言だけ言いたいと発言を求めました。

「ぼくは、この音楽の授業は、大変すばらしいとずっと感心しています。
その理由は、最初から最後まで、子どもたちの言葉が、どれもこれも、温かい。
一つの発言も、ちょっとした雑談やつぶやきでも、どこにも、殺伐としたものがありません。
音楽室へ子どもたちが来て、授業を終えて出て行くまで、ずっと聞こえる言葉が温かかった。
ぼくは、どの教科や活動のどんな授業でも、そこで聞こえる子どもたちの言葉がどのようなものであるかがものすごく大切だと思っています。
これは、今日の授業のためだけにできることではありません。
最初から最後まで、子どもたち全員の言葉が温かい。
これに勝る授業はない、とぼくは思っています」

私は、もう何回も参加者のいる授業をしてきました。

校内だけでなく地域の教員の参加する会、県内全体から三百人の参観があったので体育館の一隅を教室に見立てて行った授業、県内各地や県外まで何度も行ったことのある「初めまして」の子どもたちとやる「飛び込み授業」。

高い評価や賞賛の声、を高名な実践家の方から子どもたちまで、たくさんたくさんの声を頂いてきました。

でも、今でも一番うれしいと思えるのが、この
「言葉が温かい」
です。
この評価は、たぶん、この学級の担任教諭もうれしかったと思います。


こんな授業の評価を誰かが誰かにするのを聞いたことがありません。
私自身も、そういう立場やそういう場面があっても、このようなことを言ったことはありません。
そもそも観点にありませんでした。

さすがM先生。

公園のベンチは、本物だった。
どこにベンチを置けばいいかを観察した子どもたちの目は、小さい子を釣れたお母さんや、立ち話をしている高齢者の方々、お弁当を食べる人たちを見逃さなかった。

言葉が温かい。

観点が温かい。

授業が温かい。

つけたし


教員養成の大学教員をやっていたとき、教材開発か教育実践かの授業を受け持っていました。
そこで、ハゼ釣りの実践のことを学生に話題提供しました。
学生たちから、とても分かりやすいし参考になると大きな反響を得ました。

でも、「言葉が温かい」の話は、大学でもしていません。
授業方法や授業分析をきちんと扱う時間がなかったのもその理由です。

それ以上に、まだ現場を知らない学生たちには、これは高度過ぎると思われたのもあります。

現場を知らない教育学者や、形だけの研究授業をしている人たちには、どうでしょう。
ひょっとすると、高度過ぎるような気もします。








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