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年の差が20歳で結婚生活20年になるといろいろありますので少しずつお話③

もう少し新婚生活をじっくり過ごそうと思っていたら、新しい家族が加わります。しかも、とんでもないことがおこって、大変なことになりました。


抱っこ

お月様

1年ぐらいは新婚生活をしながら、彼女には私の生活になじんでもらおう。

というのも、私は子どもの頃から神経質で、本当はとっくに教員の職業病の一つとも言える「うつ病」というものにかかっていたらしいのですが、『ツレうつ』でそれが有名になるまでは、本人はもちろん、両親にもわからない。

下手をすると、呼吸や脈が乱れたり、腹痛や頭痛がしたりして、内科病院に駆け込んでも、「どの検査をしても異常は見つかりません」とお医者様にもわからない。

その頃は、心の病にかかっているらしいことは、音楽仲間や彼女も知っていましたが、実際の日常生活でも私が何事にも非常に神経質であるのに比べて、彼女は、とってもおおらか、ざつ、てきとう、まあ、そういうところが20歳も年下なのに、頼もしく感じたところもあったのです。

とは言え、お互いに余裕がないときは、かなりの軋轢も生まれてしまいます。

二人だけで生活しているときは、まだ余裕があったのですが、彼女が新しい生命を宿しました。

「もっとしっかり力を入れても大丈夫」

そう彼女に言われても、お腹の中に赤ちゃんがいると思うだけで私は彼女を抱きしめられません。

これで状況がどんどんと変わり始めるのは当然のことです。

私は、できる限り自分の準備などは自分でやるようになりました。

彼女は平気で、演奏会で、かなりお腹が大きくなってきても、ぴょんぴょん跳ねながらサックスを演奏することもあります。

指揮をしながらそれを見ているだけではらはらしました。

そうこうするうちに音楽仲間と演奏の録画を見ていた夜に、彼女が突然、「あっ、産まれるかも」と。

かかりつけの産婦人科に連絡すると「すぐ来てください」。

そのまま、両家からの援助も受けて産婦人科病院の特別室に入りましたが、しばらくはまだ産まれないとのこと。

そして冬の日の昼過ぎから「痛い」と言い始めて、分娩室の前の部屋に移動。

かなり長い間、私は彼女の手を握っていましたが、ものすごい大きな声で「痛い、痛い、痛い・・・」と叫び続けるので、彼女の母親が「代わりなさい」と私に言い、しばらくすると「痛いのは当たり前。それよりもこんな大声出さないで」と彼女は母親に頭をぴしゃぴしゃ叩かれてます。

附属小学校は比較的若い男子教員が多く、私よりも若くて既に子どもがいる同僚たちも少なくありません。

彼らから「伊東先生、立ち会うのですか。私は立ち合いましたが、先生の年代だと刺激が強いと思うので、勧めません」と口々に言われてました。

それで、彼女がいよいよ分娩室に入るときは、入り口で見送っていたところ、助産婦さんにいきなり割烹着のようなものを着せられて「さあ、お父さんも中へ」と入らされてしまいました。

「枕元で手を握って励ましてやっていてください」と言われていくらかほっとはしましたが、それでも長い間、「痛い、痛い」と叫ぶ彼女を見ているのはかなりの根性が必要でした。

おもむろに白衣の恰幅のよい男性が来て、「そろそろかな」と言います。

産まれたばかりの身体をさっと拭かれた赤ちゃんを私に抱っこさせて、三人で記念撮影。

この記念写真は、出来上がったのを見た彼女が「ずるい」と一言。どぎまぎしていたはずなのに、その写真を見ると、ばっちりとカメラ目線の完璧な笑顔の自分に啞然としました。教員の仕事で引率したり、あれこれと音楽活動をしたりして、写真を撮られることが多い私は、カメラが向くと自然に写真用になるようです。

記念撮影のあとは、「しばらく外で」と言われて、当時は煙草を吸っていたので、中庭に出て深呼吸しながら夜空を見上げると、とてもお月様がきれいでした。

「人の親になった」

45歳で初めての子どもでした。私の腕にくっついたあの赤ちゃんを抱っこしたときのふわふわした感覚。

「もう、自分一人の自分ではない」

お月様の光の下で、身体のすみずみの細胞が生まれ変わるような感じでした。

天才

男の子。

別に女の子でも同じだったとは思いますが、誰よりも喜んだのは、私の父親です。

「お前は、たいていのことは、おおむね親孝行をしたと思っているが、ただ一つだけできていなかったことがある。それが、お前が子どもを見せることだった。その念願がやっとかなった」

私の妹には娘がいて、私の父にとっては私の子どもは初孫ではありませんでした。それでも私の方の孫が欲しかったというのです。

それからが大変でした。詳しく書くと大変な量になるので、簡単に言えば、生まれて来た男の子の名前をつけるのに、父と私の間で合計で百ぐらいの候補のやり取りが、手紙やファックスであったのです。

父も私も教員ですから、それはもうたくさんの子どもの名前に出会っています。名前を見れば、特定の子どもの顔が浮かぶというのも稀ではありません。そのおびただしい数の名前と比べて、父の孫にふさわしい名前をつけなければならない、ということなのです。

私の名前が、「玲」と書いて「あきら」と読むことは前にも書きました。またその文字の意味が、ほとんど「美しい音」しかないことも書きました。

さらに父が力説したのが「この家の男子は漢字一文字の名前。訓読みを本名とするが、音読みが通称として通りやすいもの」ということです。

確かに、父は「功」で本名は「いとういさお」ですが、世間では「いとうこう」で通ってました。ただ私の場合は、ときに「れいくん」とか「れいさん」とか言うひとがいても、多くは「あきらさん」です。

これについては、この頃も、彼女は私のことを「先生」と呼んでましたので、ここで言えば、さすがに家の中で「先生」と呼ばれるのは、何をしていても気持ちのいいものではありません。

彼女が私のことを「あきらさん」と周囲の音楽仲間たちと同じように言うようになったのは、子どもが産まれてからでした。

結局、私の提案を父が承諾する形で、赤ちゃんの名前は「朔」と書いて「はじめ」となりました。「いとうはじめ」です。「いとうさく」もなんとか行けます。

「朔」は朔日餅の「朔」で新月の意味です。ものの始まりを表すと字義にあり、例には、「音楽の最初や、その合図」というのもありました。さらには、産まれた日に見上げたお月様が美しかったので、月にちなんだ名前をつけたいと私は考えていたのです。

父も大変満足した様子でした。

ところで、あとになって、父にやられた、と思ったことがあります。それは、私の家系の男子の名前で、しかも家系と言うほどのものもなく、父方の祖父から分家したので、父が二代目、私が三代目、そして「朔」が四代目となります。

で、初代の明治生まれの軍人だった祖父の名前は、と言えば、「三郎」なのです。十一人兄妹の三番目に生まれたから「三郎」。御召鑑「香取」の砲兵長か何かをやっていて病気で退役したと、祖父本人や父の姉から聞いたことがあります。それを証明するような立派な額もあります。

ものすごい怖い人で、私のような孫にも容赦なくびしびしと叱りました。

まして父に対しては、「男が音楽などやるなどどはもってのほか」と随分と厳しく、父は師範学校などで独学し師範の先生に教えてもらってピアノが弾けるようになったと、あとから同級生の方から教えてもらいました。

父は、余り自分のことを語らない人でした。

それはさておき、「朔」と彼女が退院してきて、三人の生活が始まりました。

朝、私がトイレに入っているとき、階段でものすごい音がしました。

扉を開けると、目の前の階段の下に、赤ちゃんが倒れています。すぐに抱っこしてしまいました。これは本当はいけません。頭に強い衝撃があったときは動かしてはいけないからです。

しまったとは思いましたが、とっさの自分の動きだったので、このあとはなるべく振動などさせないように気を配るだけです。

次に目に入ったのは、階段の途中で白目になって仰向けになっている彼女でした。

彼女が赤ちゃんを抱っこしたまま、階段を駆け上ったり、駆け下りたりすることがよくあったので、何度も注意していたのですが、とうとう落ちたのでした。しかも後で確認したら、踊り場から落ちて来たというので、かなりの高さです。

ここは、さすが教師。私は冷静でした。毎年、救急訓練があるので役にたったのです。彼女に声をかけながら電話に向かいます。当時はまだ固定電話が主流です。

かけた声に返事をする彼女に「動くな。そのままで」と言い、救急に電話をして、状況説明と現場の住所を簡潔に言いました。

受話器を置くと、赤ちゃんはどこからか血を流しているようです。頭に手を添えて大切しながら、落ちた場所に方向も同じようにして寝かせました。

そして急いで救急車が来る前にしなければならないことがあります。

私は、物音でトイレから飛び出したので、電話を終えるまで、下半身に何も身につけていませんでした。トイレにもどって始末をして、下着とズボンを身につけている間に、家の前に救急車が止まりました。間一髪でした。

隊員が入ってきて、赤ちゃんと彼女を救急車の中へ。戸締りをしているときに私のワイシャツに血がついているのがわかりました。心配です。

結局、救急隊の方々の行動力で近くの国立病院の救急が引き受けてくれました。命の別状はないとのことで、ほっとしました。

あとから彼女に、「あのとき、あきらさんは赤ちゃんのことだけを心配して、私のことはほとんど忘れていたでしょ」と言われましたが、正直にその通りでした。

「異変があったら受け入れてくれる病院へ」と言われて、私は、結局その二日だけで3回あちこちの病院へ赤ちゃんを連れて行きました。

用心深い父でさえ笑うほどでしたが、「笑い話になるのならそれでいい。もしものときが怖い」と言って、赤ちゃんが、少し戻したとか、咳き込んだとか、だけで病院へ走っていました。

「はじめ」は、漫画『天才バカボン』に出て来る、天才の赤ちゃんの名前と同じです。バカボンの弟は、馬に蹴られて「天才」になる、という設定でしたが、私の「はじめ」は、階段から落ちてしまいました。

口の悪い友人が、「これで息子も天才になるな」と言いましたが、このときは笑い話にもならず、後遺症でも残ったらどうしようかと心配ばかりしていました。

幸いにも赤ちゃんが軽くて柔らかかったので、その後に身体の不調にもならず、無事に成長しています。

それよりも、天才になるという漫画のような話が、このあと現実味をおびてくることになります。





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