平等の重さ
「英語が一番嫌いだったな。」
娘が、小学校卒業前にぽそっとともらした言葉が衝撃的だった。
「えっ?」と思ったが、瞬時に「ああ、簡単すぎたから?」と聞き返したら、びっくりするような答えが返ってきた。
「ううん。先生が私のことさしてくれなかったから。」
娘は小学2年生の終わりに、アメリカの小学校から日本の小学校に転校した。卒業までに何人かいらした担任の先生の中には、「みんなで本場の発音習っちゃおう!」と、娘を使って上手に授業をしてくださる先生もいらしたが、ある先生は、娘が手をあげても絶対にさしてくださらなかったそうだ。それ以来娘は手をあげる事をやめてしまい、英語の時間が一番苦痛だと感じていたようだ。
その先生は娘をとても高く評価してくださっていたので、嫌われていたとかそういうことではない。きっと先生の中には「帰国子女の子供は、他の子よりも英語ができ過ぎるから、不平等にならないように配慮しよう。」との思いがあったのだと思う。
これこそがまさに、日本の教育界における「平等」の考え方を象徴しているような気がしてならないのだ。
例えば、娘がアメリカの小学校1年生の時は、同じクラスのインド人の女の子が、飛び級で2年生になっていった。他の子よりも能力がある子が、飛び級することについて、誰も「そんなの不平等だ!」と文句は言わなかった。
2年の時には、2年生を2回やっているアメリカ人の男の子がいた。周りもその子も、人と違うことが不平等とは全く感じていなかったと思う。
みんなと同じでないことが不平等なのではなく、その子の能力に応じた教育が受けられないことの方が不平等だと思うのが、アメリカの教育の根底にある考え方だと思う。
今まさに日本でオンライン授業をめぐって「デジタル弱者には不平等じゃないか。」という論調があるが、これも同じ構造のような気がしてならない。
みんなが同じ状況というのはあり得ないのだから、それに応じた対応をして、どんどんオンライン授業を進めている諸外国や、先進の取り組みをしている日本の学校。それに対して、みんなで足並み揃えないと出来ないという「平等」の論理をかざして留まったままの自治体や学校長も多いと聞く。
平等というおもりと、学ぶ権利というおもり、どちらを優先するのかが今、問われている。
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