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名前が「私」か・・・

💐花🌷

花と大きな括りがある
花といってもいろいろな種類の花がある
花という概念は人間という生き物が持つ共通概念でしかない

おそらく花たちは自らを花とは思わない
種類によって名付けられた花
例えば、すみれとかベンジャミンとか

そんな花たちも自分が
すみれやベンジャミンとか
思うことはないだろう

ただ花は人間のわけた種類にかかわらず
咲く時期に咲き、散る時期に散る

自らの咲く時期を知り
自らの散る時期を知る

自分という概念も何もないとは思うけど
種類も様々、同じ時期でも咲く時間はそれぞれ

自分の「名前」は知らなくても咲いて散る

人間は概念に縛られる
自分は人間で、日本人で、何某で・・・
学歴がああでこうで
職歴がどうでこうで
だから自分はこうだと

花と呼ばれる植物は
誰とは知らずに花を咲かせ散る

人間も誰とは言わずに
花が咲くように散るように
生きれるならいいと思う時がある

ベンジャミンとかすみれとか名付けらるけど
ベンジャミンはベンジャミンとしてしか咲くしかない散るしかない
すみれもすみれとしてしか咲くしかなく散るしかない

でも、すみれもベンジャミンも自分のことを
すみれともベンジャミンとも気づくこともなく咲いて散る

人間もそういう「生き方」できると楽だろう
そんなふうに考える時がある

花は自分たちの咲く時期に咲き
散る時期に散り生と全うする

人間もそうであれば誰彼気にせず
「こうとしかできない自分」を全うできるだろう

Habit

世界の終りと言うバンドの歌
人間の性質を言い当てたような歌詞

人間は分類することで
自他を認識する生き物だ
自分はこうで、相手はこう

名前で定義された「個」を自覚して
他人との比較で「自分」を確認する

さらに、社会的な分類で自分を定義する
その定義が「自分」というふうに自認する

生まれる場所、日時、誰から生まれ
名前さえも自分で選ぶことさえできない

でも、その名前で他の人間と分類される

昔は、成長とともに名前は変えられた
名前に自分の表現を込めることもできた

現代は一生同じ名前で生きるのがほとんどだ
その名前が自分に合わないと思っても

名前から分類が始まり
その周りに、どこそこ出身の何某
日本人の何某と様々な分類が加わる

そして、その分類が結局
自分という生き物を生きづらくする

Habitの歌詞はそういう人間の生きづらさをついている

「自分で自分を分類するなよ」Bad Habit

分類が人間を壊している様な気がする

花は自分を花と思わず咲いて散る
花は自分を花と思わず咲いては散る時期を生きる

自分を何かに分類することなく
何かと思うこともなく
生まれて、生きて、死ぬ

言葉で表すには限界があるけども
自分は自分として分類せずに咲いて散るように生きたい
と花を見て思う
Habitを聴いて思う

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