アフターコロナ
職場が業務停止になって約3週間、緊急事態宣言が出てから10日余りが過ぎた。私は観光地で売り子をしている。4月下旬ごろにはまた職場復帰できるつもりでいたのだが、甘かったようだ。本来、中国の春節がある2月から気候が良くなる5月までは稼ぎ時なので、今家にいるのは罪悪感がある。
新型コロナウイルス感染症が騒がれ始めてから3ヶ月。政府の記者会見では毎度毎度「今が正念場」「1ヶ月だけ頑張って」と言っているけれども、本当はそうじゃないことは皆わかっているんじゃないだろうか。特効薬もない上、医療施設はパンク寸前、あらゆる物が足りない中で、簡単に解決できるはずもない。できるのは、「感染しないこと」「感染した人を対症療法」でケアすることだけだ。運よくワクチンが早期に開発されたにしても行き渡るには時間がかかるだろうし、それまでずっと今の状態で「外出自粛」を続けるのは不可能だ。おそらく、遠くない将来、この病気と共存しながら社会生活を再開することになる。今までとは全く違った形で。
中学の頃、古文の時間に「物忌み」という習慣を教わった。主に平安貴族が行っていたもので、身内に不幸があったり、疫病が流行るなどの凶事に際して、一定期間家からも出ず、人とも会わず、誰とも話さないという期間を設けることだ。その時は「災の神や魔を恐れてのこと」と解説され、昔の人の迷信深さ故と理解していたが、こうなってみると意外に合理的だったんだなと思う。医療が発達していない状況ならば、確かに人と人との隔離が最も有効な手立てだったのだろう。彼らにとっては、流行病も災害も生活の一部になっていたのかもしれない。これは1000年後を生きる私たちにとっても、人ごとではない。
大切なものは失って初めてわかるというけれど、今こそそれを痛感することはない。安心と安全がセットで保証されていて、初対面の人とでも気軽に会話や握手ができた環境が、みるみるうちに遠ざかっていく。今は面倒に感じている消毒の手順は今後当たり前になるだろうし、働き方や、社会の枠組みも大きく変化していくはずだ。その時そこに私の居場所があるのか、今からとても心配だ。