日記240114「絵画がお好み焼きになるまで/お好み焼き屋について」
僕は去年の3月に藝大の院を修了してから現在、3つの職場で働いている。
一つは京島にある銭湯、そして新宿2丁目のアートバー、もう一つが取手のアートスペースバーでのお好み焼き屋さんである。
お好み焼き屋さんはスペースの雇われ店長として、他二つはアルバイトとして働いている。
順に記すと、まず藝大生時に近所の銭湯で専ら清掃バイトとして働き、23年大学院を修了する際に取手でお好み焼き屋を始め、さらに秋から二丁目のバーで働くことになった。
それぞれバラバラな場所と趣だけど、自分の枝葉を伸ばす感じで続けてみている。
先月から久しぶりに彼氏もできたので、2024は非常に変化を見せる年になるだろう。彼とは感性や生き方で共感する部分もあって、心から言いたいことをぶつけられるし、なんてことはない日でも場所でも楽しく過ごせるし、とても強い刺激をもらっている。感謝から始まる年明けだ。
私の作品制作
大抵の人は不思議に思うだろうが、私はこの暮らしを表現活動としてやっている。
呆れるまえに聞いてほしい。
もしかしたらティラバーニャやSEA、限界芸術とかプロセスアートが好きな人なら馴染みやすいかもしれない。
逆に、作品主義だったり流行りの匿名性を支持する人には逆鱗に触れることかもしれない。
私にも作詞作曲家含め多様な友人ができて、彼らの作品を心から尊敬するしそれを貶めるものではない。
美大を出ておいて手前勝手だが、この話をアートに集約させたくないし、アートを集約させたくもない。
むしろ無関心無遠慮を決め込みたい。
もう学生ではない私をただのお好み焼き屋のお兄さんとしてみてくれても構わないが、「自分」を蔑ろにしてまでアートシーンに没頭するような浮ついた私は、もういい。
既にある仕事を個の作品として発表する、というような横取りめいたことが目的ではない。誰でもアーティスト、と言ってアートをとやかくいうつもりでもない。
絵画がお好み焼きになるまで①
高校から大学まで絵画を専攻していた私がどうしてと言う声もあるが、わかりやすく置き換えて言えば、人生という画布にお好み焼き屋というメディウムで描いていくというだけで、やっていることは同じ、表現方法が違うというだけだ。
私にとって作品とは人生をかけた活動で、生き方だ。それは美術館のためでも美術史のためでもなく、自分のため、そして人間の尊厳のためにある。
なぜ絵画がお好み焼きになったのかについては書くべきことがたくさんある。
整理しながら書いていく。
まず、絵画という作品の在り方について考えを深めたのは、ある空間との出会いがある。
2016年の夏に開催された瀬戸内芸術祭、当時大学2年生の私は直島の地中美術館を訪れ、モネの部屋と出会った。
その部屋は広くて無機質な空間にモネの睡蓮が一枚あるだけなのだが、太陽の光が部屋いっぱいに降り注いでいた。
光に満たされた空間の中で睡蓮の絵はまるで拡張して、私は画面の中にすっかり引き込まれてしまった。これまでにない驚きと喜び、感動だった。
この体験が、絵画と場所性を含めた作品の同一性を考えるきっかけとなった。
また、その後留学中にパリのオランジュリー美術館で見た大画面のモネで直島の時ほどの感動体験を得られなかったことから、このことは一層印象づいた。
続く...
私の仕事① お好み焼き屋について
今のお好み焼き屋をやっている場所は、藝大の先輩である葛谷さんが経営するアートスペースバーで、私は雇われ店長として月のうち2週間だけお店を出している。
私がいる間に葛谷さんはもう一つのお店がある山口県へ行っているので、お店の業務はワンオペである。
既に出来上がっている場所、既に常連のついているお店でありながら、どこか一般のお店と違ってくだけていて、挑戦のしやすい場である。
地元の料理を振る舞える喜びと幅広い職種年代の人達と話せられる楽しさがある一方、飲食は未経験で得意とは言えない。
それでも奥深い仕事だと思うし、石の上にも3年、結果を出せるまで粘り強く続けていくつもり。