性被害と向き合いたくない
私がこのnoteを書く目的は、題名に反して、性被害を向き合うため。正直向き合いたくないのだ。向き合いたくないが、向き合わないと私の中の感情と経験に麻痺が起きそうで怖い。私に起きた”事実”と”感情”を明確にしたかった。声をあげることが大事とか、そういう話ではなく、ただ一人の当事者としての葛藤を書き連ねたかったから。
知り合いにこの事実を知られたくないし、noteで匿名で整理できる状況が本当に好都合だ。
これを読んだ人がどのような経験をしているか知らないし、私は私の経験しかないから、共感とか、否定とか、そんなものはあまり大事ではなくて。むしろ、共感されるとこの社会に対して絶望してしまうかもしれないので異なっていてほしいな。
被害時の本質に触れたくない
「私、痴漢にあってすごく怖かった」「声をあげる勇気がない」「電車を止めてまで他人に迷惑をかけられない」と被害にあった友達は勇気をもって私に話してくれる。(事実を伝えるだけでもかなりのエネルギーがいるのに)「私も同じ経験をしたことがある」ということを伝えて、みんな怖い思いをしている事実を知って、私も友達も少し暗い顔をしているだけ。この会話に抜け落ちている部分と言えば、自分に起きたその時の"衝撃"だ。そんなもの全く話せるわけがない。恐怖をわざわざ思い出す行為なんて、精神を擦り減らすだけだから。苦痛に襲われるだけだから。だから、当事者同士で話してても、性被害の事実はただ一つの悲しい”出来事”くらいに捉えられ、会話の中で完結されていく。最も深い傷に触れたことは一度もない。
私が「怖かったね」と友達の声の本質を聞くように返さないから、悲しい”出来事”で終わってしまうと思うかもしれないが、そんなの本質に入りたくないから、深入りしないに決まっている。
私は被害を軽視しようと消化する。周りの女性の友達も同じような経験をしている。この事実は私たちを麻痺させる。「みんな被害にあっているなら、それが当たり前なのかな」と自分に起きた衝撃を一般化したくなるのだ。
本当は友達に加害を加えた奴が憎くて仕方がないし、友達の本質に触れるべきなのはわかっているが、同時に私も自分に起きた事実を思い出さなくてはならなく、それは私にとって耐えられない行為なのだ。
”ある”加害者を加害者だと思いたくない
これは、私に起きた事実に触れることになるため、性被害にあってトラウマや苦痛を感じる人はここを読まないでいただきたい。
フェスで一人で前の方に行けばほぼ100%の確率で性被害にあう。もみくちゃになるあの状況で多少の接触は全く仕方のないことであるが、意図的な接触というのは確実に別のものとして明確にある。ここでは特に例えるつもりもないが、意図的で非常に許せない。このような"知らない人"からの性被害は、本当に許し難いし、憎くて、仕方がない。
それとは別に、"仲の良い友人"、"恋人"からの加害を加害と認めたくない自分がいる。
以前、仲良くしていた友達が、私が寝ている間に突然性的加害を加えてきたことがあり、抵抗しても勝てるはずがなく、耐えるしかなかったことがあった。その状況からなんとか抜け出した後、テキストで「非常に屈辱的で許せない」ことも伝えた。そしたら彼も反省していて、長い期間、謝罪もたくさんしてきた。彼は非常に面白い子だったので、謝罪してきた彼を許せない私が嫌で彼をその時は許そうと決めた。でも、その時に受けた傷は無くならないし、そのことによって知人男性に対しても、かなり距離を取らないと落ち着かない状況で、以前とは全く違う警戒心と、トラウマに近い形として残っている。結局、フラッシュバックし、縁を切った。
これは私の一貫した考えだが、1つの行為や1つの事実でその人を語ることが非常に嫌いだ。例えば、盗みをした人がいる、全然人を殺したとかでもいい、その行為自体は許し難いが、その事実だけでその人を語れるほど、人間は単純ではないし、非常に多面的である前提を大切にしている。だからこそ、加害者が知り合いであると、余計その人の"いい部分"を知っているため、彼の全てを否定することはできないし、反省しているなら尚更である。
今話したのは、友人関係であったが、最も加害者と認めたくないのは、恋人関係にある人だ。私みたいな人間が多いからDVは中々無くならないのだろうなと思ったり、DVをDVと認めることがどれほど難しいかを知らない人にはわからないよなと思ったり。
以前付き合っていた人と性行為をしていた時、顔をかなりの回数叩かれ、顔が数日腫れたことがあった。気がついた時には性行為以外の時でも乱暴になっていった。いや、愛とは難しい。「好きだったら、多少のことは受け止めないと」なんて思ってしまうのだから。でも、私の顔の異変に気付き、詳細を聞いてきた友達は啞然としていた。「怖くないの?」そんな風に心配そうに聞く友達に「怖いに決まってるけど、嫌と言っても伝わらなくて…」と返したら、友達は泣いて大激怒。その時初めて私は異常な状況にいることに気が付いた。結局、その後、何度も嫌ということを伝え、最終的に彼を思いっきり殴り返すことで事は解決はした。解決しても、私の中ではずっと恐怖は残っていたし、その後ここでは書く気にもなれない絶望的な状況に陥り、関係性は歪みに歪み、別れた。
この一連で"愛"が何なのか全くわからなくなってしまった。そして、"感情"というのがうまく機能しなくなっていることを実感した。
私は今も、付き合っていた人の行為を加害とは認めたくない。特別な関係の人がそんなことをしていると思いたくない。
許せないでいる自分も辛いから、無かったように接するしかないのだ。
闘っている女性に対する尊敬
私のこの一連の話だと、明らかに被害を受けて闘っている女性の逆の行動をとっているが、彼女たちのことは本当に尊敬しているのだ。私には、事実と向き合って「社会と闘う」以前に自分に起きた事実と向き合う精神力がないのだ。ここでは彼女たちが強いからできるといいたいわけではなく、彼女たちは少なくとも、最初に触れた見えにくい”本質”の被害のために闘っているからずっと、ずっと私より膨大な時間、その苦しみと向き合ってきていることを言いたい。私は、被害にあったせいで自分の人生を被害者として使いたくないのだ。彼女たちだって被害にあわなかったらもっと、自分の趣味とか、娯楽とか、文化に触れる時間があったのに、被害のせいで、彼女たちの正義感や正統性の精神と表現してもいいだろうか、性被害に向き合う時間が明らかに多くなっている。彼女たちのおかげで、より多くの女性を救う方向に向かっていて、本当に頭が上がらない。現代フランスについて学ぶ私は妊娠中絶合法化に尽力したシモーヌ・ヴェイユをはじめとし、女性の社会平等のために闘う方を尊敬し、いつか私も向き合えたらいいなと思っている。
私はまず、自分と向き合うためにこのnoteを書いたのが第一歩だと思う。
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