人の話を聴くことと瞑想と対話について
1年前のFacebookの投稿が思い出として上がってきた(上の写真)。
これを見ていて「聴く」や「コミュニケーション」について今感じていることを書きたくなったので、書いてみる。
(定点観測みたいにFacebookでこれが上がってきたら何かしら書くのも面白いかも)
1年前にこの投稿を書いたときに自分の中で言語化されていたかどうかはわからないのだけれど、この「静けさ」は、話し手さんがニーズにつながっていくその場に共にいてその感覚を味わっていると、自ずと自分のニーズにもつながり、ひたひたと満たされる感じがあって整うことでおとづれるのだろうか?なんて思っています。
話し手さんのニーズだけれど、今自分の中でそのニーズが生き生きとしていなくても、そのニーズは自分の中にもあるので、自分とつながるきっかけになる、ニーズが満たされる感じを想像して味わうことでいのちとつながる、そして今ここにいられることに感謝している状態になるのかなぁ、と。
人の話を聴く時の私
「人の話を聴く」モードに入ってる時は、瞑想のようかもしれない。「あ、これが出てきたな。ここに置いておこう。あ、これが出てきたけどこれは過去のことで流れていったのね、とそれぞれは『ある』し、大切に置いておくけれど、今ここの息遣いを感じる。
置いておくのは話し手さんのものの場合もあるし(ある事はわかったけど、話が進んでいて、それが後で必要になるかどうかわからないので、とりあえず脇に置いておく)、自分のもののこともある(聴いた内容に触発されて出てくる自分の感情やニーズ、思い出)。
マーシャルが言っていたよ、とジムが教えてくれた「一時的に置いておく棚」の話がある。共感的に聴こうと思っていても、瞬間瞬間に自分の中に大切なものが湧き上がってくる。それは大切なものだけれど、今は扱わないことを選択して、その棚に置いておく。話を聴き終えたら、その大切なことを味わう時間をとったり、自分が自分のことを聴いてもいいし、日記を書くなどしてプロセスしてもいい。他の人に聞いてもらうこともできる。
自分の存在を透明にして、相手の感情とニーズを自分の中で響かせ、共鳴し、そこから「こんな感じですか? これが大切なのかしら?」と推測するために、棚に置いておく(自分のことは棚に上げて😁←通常これ言われる時って、実際には「自分だったらこうなってほしい」を相手に乗せているんだけどね🤯)
話し手さんの「脇に置いておく」ものは、斜めくらいに置いておいて、必要だったら「さっきのこれでしょうか?」とお互いに手をとれるくらいのところに置いておくんだけど、「ある」ことは確認したので、とりあえず話し手さんと共に居れば・あれば、その脇に置いていたのが必要だったら気づくし、必要でなければ、そこに置いておけばいい。(自分の棚に入れない)
自分も当事者の場合の私
対話時には、NVC*では、3つのモードがある。
① 自己共感
② 正直な自己表現
③ 他者共感
②と③はどちらが先、というわけではない。
そして、①が最初にくることが望ましいけれど、そのサポートを相手にお願いする可能性もある(その時はサポート役の相手が自己共感ができていて他者共感をすることを選択している。相手が選択しているかどうかが確かでなければそれを選択してくれるかを確認する)。
そして、お互いに当事者なので、お互いが3つのモード、どれも行き来できるといい。
その時でも、③を選択している時には(自分が相手が何を感じていて何が大切なのかを感じようとする場合&相手の自己共感のサポートをする場合)、「人の話を聴く場合」で書いたように、自分の感情とニーズ、反応はとりあえず棚に上げて置けると、3つのモードが混ざりにくくなり、お互いにお互いの話を大切なものとして聴けるのではないかな、と思っている。
ここまで書いてみて
件の投稿が上がってきた時には「えー、これ書いたのはたった1年前か。もっと前に書いててもよくない?」と気づいたのが1年前だったかどうかはわからないのに自分にダメ出しをしていた😂
今ここまで書いてみたら、去年は端的に書いたことを今日は別の視点(3つのモード)からも書くことができて、「えー」と思ったから(引っかかったから)だな、と思うと、FBがあること、FBの投稿機能や、思い出リマインド機能、そして学べていること、学びが少しずつでも進んでいること、言語化が進んでいることなどに感謝しています❤️
(今日も長文になりました。読んでくれてありがとう!)
NVCとは
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「わかりあえない」を越える
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