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もしかして、世界はあべこべになっているんじゃないか?

ふと立ち止まって周りを見渡したとき、こんな疑問が湧いてきたので言葉にしてみました。(何を書いても人生になっちゃうんだな。。)


生成AIが大活躍してるらしい

 Facebookのタイムラインに、生成AIの精度の高さに驚いた、という記事が流れてきた。ミーティングの録音から書き起こした文章に基づいて、ものの10分で〇〇字を超える文章を書きあげたのだとか。確かにへたな人間が書くものよりわかりやすいし、なかなかに読み応えがある。

 生成AIは便利だ。私も時々ブレインストーミングのお手伝いをしてもらったり、上手い表現が見つからない時に相談にのってもらったりしている。学生が課題を生成AIを使って書かせることも、仕事のメール文を書かせることも朝飯前でできそうだ。
 そんな事態に対して、このままだと人間の仕事が無くなってしまう、とか、生成AIを使うことで人間が退化してしまうんじゃないか、とかいう不安の声も出てきている。確かに、人間が生成AIのプロンプトを入力するだけの存在になってしまうとしたら大変だ。AIの大活躍と引き換えに、人間が退化したのでは本末転倒だとは思う。

で、何が大変なんだろう?

 ここでふと考える。で、何が大変なんだろう?
 先の記事のように、打合せの書き起こしからブログ記しまったりしまったり、本来は人間が書いていた文章を生成AIが書けることが問題なんだろうか?たとえば大学の課題や就職活動のエントリーシートを、生成AIが本人の代わりにスラスラと書けてしまうことが問題なんだろうか?
 アウトプットが素晴らしくて、これじゃあ人間の役割がなくなるじゃない、、という言葉が聞こえてきそう。



ん? でも、待って!それってあべこべじゃない?

そもそも、あべこべなのかもしれない

 人間はアウトプット・マシーンでもなければ、仕事や経済活動をするだけの存在でもない。アウトプットが出せなければ意味がない、経済活動ができていなければ役に立たない、なんて声はあちことから聞こえてきそうだけれど、本当にそうなんだろうか?

私たちにとって、
生きる・生きていくということが人生の本流なのか、
経済活動をしたり成果を出すことが本流なのか。

あなたはどっちだと思うだろう?

 実は、生成AIの活躍を待つまでもなく、そのずっと前から私たちの生活はあべこべになっていやしないだろうか。自分の命を生きるというプロセスは、いつからアウトプットや成果より格下に位置づけられたのだろう。

息子と過ごした8年間のプロセス

 こんなことを考えたのは、息子のプロセスに伴走した経験があったからかもしれない。
 この春、我が家の次男が専門学校を卒業して社会人になる。ここに至るまで、実は高校を自主卒業してから数えて8年の歳月がかかっている。(わかりやすく言えば、不登校から自主退学)高校を辞めるという選択は、世間一般でいうところの経済活動や成果を出すための最短ルートから外れるということ。だが、息子の命はその最短ルートには耐えられなかった。心も身体も、彼の命全体が全力で拒否していた。
 そこで親としての私に迫られていたことは、息子の命のプロセスに従うか、世間で検証されている成果への道を選ぶかだったと思う。そして私は、息子の命のプロセスへの信頼を選んだ。
 一本道を選ばなかったのだから、そこからはけもの道。頼りになるのは、本人がその道で感じ、考え、体感していくプロセスだ。詳細はまたどこかで書くとして、結果としてこのプロセスを生きたことは息子の自信とレジリエンスにつながっていったと思うし、人間形成に大きく影響したと思う。

プロセスを味わい尽くして生きる

 人生も終盤になった私が感じていること、大事なのは生きてきた時間をどう捉えてこの旅を終えるかなんじゃないか、ということだ。そのためには、その旅のプロセスをしっかりと感じ、体験していく必要がある。それは、どんな成果を出しても、出さなくても、だ。
  生成AIが書いた文章がどんなにすばらしくても、あなたの歩んだ人生やあなた自身が感じてきたことと何の関わりもないとしたら、たとえ評価されたとしても、どんな価値があるだろうか?それは、あなたの生きている時間を豊かにするだろうか?
 できることなら、私は自分が生きた時間、プロセスを味わい尽くし、それを表現し切って、この旅をやり遂げたいと思う。


noteを書いていたら、頭の中にこの曲がBGMで流れてきました。enjoy!


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