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感情は風の香のように


もういやだ、普通になりたい

 後から後から頬を伝う涙を止められず、しまいには嗚咽する始末。ライブで音楽を聴きに来ただけなのに、こんなことになるなんて…。会場に流れる歌い手さんの明るくて柔らかい声と切ない歌詞のオリジナル曲を聴いていたら感情が揺り動かされてしまった。
「もういやだ、普通になりたい」思わず心の中でつぶやいた。

不意打ち

 そう、いつだってこんな風に不意打ちはやってくる。
「そういえばここは、かつて彼と訪ねたカフェだった」と気がついたとき。一緒に買い物した店の前を車で通りすぎたとき。何かの音楽が心に触れたとき。不意に何かのふたが開いたかのように、悲しみが、涙があふれてくるのだ。
 月に何度か、何ヶ月おきかに経験する不意打ち。それがこのところ、結構頻繁に起きているように思えて気になっていた。
 いったい何年経ったらこういうことがなくなるんだろう、そのたびに私は思うのだ。もう5年も経ったのに、まだ生々しい痛みがやってくる。息子を亡くしたという事実を思うとき、愕然とする自分がいる。起きてしまったことの、失われてしまったものの大きさに、決して慣れることはないのだ。

見たくなかったのは私

「普通ってどういうこと?」と友人はたずねた。はた、と私は考える。
「いつまでも悲しんでいる自分でいたくなかった。」
「悲しいのは当たり前だよ。どうして?」
 どうしてだろう?悲しむ私は、傍から見て受け入れがたいんじゃないか。そんな私を見て、人はドン引きするんじゃないか。いつまでも泣いていてはダメ。そんな考えが私の中にあった。それと、こうして泣いている私は私の全部じゃない、という気持ちもあった。
 そう、悲しむ人を見たくなかったのは、周りの誰かじゃなくて私自身。泣いている人を隠したいのは私だった。もちろん、泣いている私は私の全部じゃないけれど、それも私の一部だ。いないことにはできない。
 感情を大切にしたい、どんな小さな声も受け取りたい、そう思って様々なことを学び、実践し、教えたりもしてきたのに、年月を経て少しずつ自分の中の悲しみの声を脇に追いやっている自分がいた。きっとあの曲は、そんなことを気づかせるために歌われたのかもしれない。

いのちの花からの香り

 何年か前に出会ったコロンビア人のNVCトレーナーが、感情は「いのちのエネルギーの花から立ち上る香り」だと話してくれたことがある。
 道を歩いていて、よい香りがするなぁと思ったら、金木犀が咲いていた。春の風が花の香を運んでくれて、自然のいのちが新しい季節を生き始めていることに気づく。もし人の感情もそんな香りと同じだとしたら、気がつかないふりをしたり、なかったことにしたりするだろうか。香りに気がついて花を見つけ、そのいのちを愛おしく思うだろう。
 感情が香りだとしたら、私たちのいのちのエネルギー、NVCでいうところの「ニーズ」が花だ。それが悲しみや辛さであっても、喜びであっても、私たちのいのちの奥底にある願いと通じている。その願いを自ら拒んだり、ないものにするのは、もっと悲劇的なことじゃないだろうか?

悲しみとともに生きる

 私は悲しみと痛みにあらがうことなく、友人の前でただ泣いた。そこにあるいのちの流れに身を委ねて、自分のいのちを生きた気がした。悲しみは波のようにやってきて去って行った。
 きっと、生きている限りこの悲しみは変わらず私と共にあるのだろう。このグリーフが、私が息子と共に生きることができた証しだし、どれだけ大きな贈り物を彼から受け取っていたかを教えてくれるんだと思う。

感じることで育まれるもの

 思考(マインド)は、自分を実際の自分より小さく捉えたがっている。確実で慣れ親しんだ答えがほしいから。だから感情にじゃまされたくない、と考えるのかもしれない。だけど、私たちはそんなに小さな存在ではない。もっと大きな流れの中で生きていて、私という存在も流れの一部であって変わり続けている。本当は自分では気づいていない様々な可能性に開かれている。感情の向こうには、まだ言葉にならない何か、が現れようとしていることだってある。
 波のように寄せてくる感情を静かに感じ受け止めたなら、私と言う小さな器も少しずつ大きくなっていくんじゃないか、そんな風に今は思えている。5年前の溺れてしまいそうな私の悲しみも、こうして私の一部として抱くことができるようになっているから。
 だから、どんな感情を怖がらないで、邪魔者にしないでほしい。悲しみも痛みも、怒りだって、美しい花の香。次の季節を知らせてくれる風の香なのかもしれないから。


<補足説明>
私は感情といのちの奥底にある願いのつながりを、NVC(Non-Violent Communication)から学びました。この学びは、刻々と変化する自分を理解することにも、他者を理解しようとする姿勢にも、また他者との関わりにも大いに役立っています。
 一方で、「私が理解している私」「私が理解している他者」「私が理解している世界」には限界があり、世界は「私」だけでは完結していません。そういう意味で、プロセスワーク(プロセス指向心理学)は、私という存在を超えた大きな流れ(プロセス)、世界と私のつながりを理解する上で、すばらしい智慧をもたらしてくれています。
 私の中でこの2つは矛盾なくそして明確に、人生を味わい生きていく上で欠くことのできないものになっています。(とはいえ、これは私の中で統合された見解であり、NVC,プロセスワークについての公式見解ではないことは明記しておきます。)



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