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【現代語訳】植木枝盛「官僚は減るべし、役人は増えるべし」(原題「官吏は減るべく役人は増すべきの説」1880(明治13)年)

原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

 官僚とは、アメリカやヨーロッパでは国家と公共の召使いと言われる。中国においても、柳子厚(唐の時代の文学者・政治家)などは官僚を民の使用人とし、日雇い職人と同様だと言ったほどである。国家があり政府があってそして官僚が出来たというのが疑いようの無い必然で、国家も政府も無いときは官僚は一人もいないはずだ。

 ではその国家や政府というものはどんなものか。突き詰めれば、世の中の人間が徳や義に満ちあふれて真に自主独立するには至らず、盗みをし殺人をし詐欺をし不倫をするというような悪行が多いために、人間を自然に放置してはその悪行はますますひどくなり際限なくなってしまう。かといって、世の中がもともとそうなのだから、天下の人々はみな自分自身の力で生きる上でのあらゆることをし、他人の悪行も防がなければならないとしたら、とてつもなく面倒であり、十分にできない。そこで政府を設け法律を作り、国家の力で一人一人の民を保護しようということになったのだ。

 要するに、人が不完全だからやむを得ず国家や政府が出来たということに他ならない。天下の人々が次第に文明的になっていけば、その分政府の仕事は減少するはずであり、人々の智と徳が豊かになっていけばやはり政府の仕事は減少していくのだ。人々が最高まで進歩した場合には、ついに政府は利益の無い不要物となる。だからこそ、世間が少しでも進化しつつあるときは官僚の数は次第に減少すべきはずで、必ずそうならなければならない。

 その一方で、役人というのは別である。もし「政府の役人」と言うときはちょうど官僚に当たるが、広く「役人」と言うときは官僚も国の役人の一つに過ぎないのだ。役人は決して官僚だけのことを言うのではなく、昔の人も言ったように町の番太(卑しい身分の番人・処刑人)や道の雲助(宿場や街道で旅人に雇われる運搬人)であっても天地の間のお役人に違いない。その他、船頭(舟の漕ぎ手)、馬方(馬の引き手)、三助(銭湯の使用人)や、丁稚奉公(商家の下働き)してる連中から、「豆や~枝豆」と夏の夜江戸の町なかを売り歩く枝豆売りに至るまで、天地の間にあって社会のためになる仕事をする者はみな全て「役人」なのである。
 官僚のように「勅任」とか「奏任」という肩書きや等級なども無いが、番太を太政大臣(≒総理大臣)と比べてどちらが優れていてどちらが劣っているとは決められない。雲助も参議(政府首脳)と並べて身分が卑しいわけも無く、帝は芋掘り百姓に「正一位 勲一等」という最高の称号を贈るかもしれない。

 だからこそ、役人は政治や法律が要らない世が訪れたとしてもやはり必要なもので、地上の文明が進むに従ってますます増加することはあるはずだが、減るはずはないのだ。減ることがないというだけでなく、世の中が進歩するに従ってますます貴く、数を増し、その流れはとどまることがないはずだ。なんと賢いことか。
 
 世間の無数の人々よ、自らを卑しむことはない。軽んじることはない。みなさま方は天地の間に立っていらっしゃる高く貴き偉大なお役人様なのだ。尊ぼうではないか。尊ぼうではないか。

〔底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕

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