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手段の目的化にご注意。

日本株投資で、日本人のみが得られる恩恵。

 昨今の日本株の上昇具合と、米国株の軟調さから、ここ数年の米国一強の雰囲気から一変して、米国株派の握力が試される展開となっている。

 私はインカム狙いの日本株と、キャピタル狙いの海外株とで、運用を分散しているため、リーマンショックのような株式市場全滅状態にならなければ、なんだかんだで恩恵が受けられるポートフォリオを意識している。

 個人的にはGAFAのようなメガテックを持ち合わせている米国が、実質的に世界の覇権を牛耳る構造は、そう簡単にひっくり返せないと踏んでいるため、円安でさえなければ、軟調なのを逆手に取って、スポット買いしたい感すらある。

 そして日本株はオワコンだと、ここ数年で散々情弱扱いされ、悉く馬鹿にされてきたのは何だったのかと思う程度に、加熱感を感じる一方で、円安の絡みからドル建てで見ると、我々が日本円で見ているほどには加熱していないとも捉えられ方向性が読めない。いや、訂正する。読めた試しなどこれまで一度もない。

 いくら失われた30年で、日本が低成長と言っても、日本人として生まれ、日本語に不自由しない以上、決算報告などを読み解く能力は、言語の壁から日本人が圧倒的に有利であることは紛れもない事実である。

 確かにGoogleトランスレートなどの翻訳ツールで、どの言語であっても概要を掴むことは可能だが、決算や有価証券報告書の語尾から感じ取れる、強気か弱気か。自信があるのかないのか。

 そうした細かいニュアンスを汲み取れるのは、企業が公用語として用いている言語に限られ、特に日本語は世界難解言語のひとつとも言われているのだから、日本人ほど日本企業をよく知るための環境が、最初から整っている。

 それに企業の税引後当期純利益をもとに配当を出しているのに、個人からも所得税、住民税を徴収すると、二重課税となるため、それを是正するための、配当控除が利用できるのも日本株の配当だけだ。

 実効税率7.2%まで抑えられる、税制面での優遇措置は無碍には出来ず、自国の企業に投資するアドバンテージとしては十分機能していると思う。

投資そのものが目的化していないか?

 とはいえ優遇制度があるからといって、それが投資目的となるのは頂けない。個人的に節税は良い響きで好きだが、節税が目的化しないように意識しているのと同じだ。

 例えば生命保険料控除は、新契約であれば年間で4万円×3種類で、最大12万円の所得控除が受けられるが、生保、介護医療、個人年金それぞれで、4万円の所得控除を受けるには、年間の保険料が8万円以上にならなければ、恩恵をフルで受けられない。

 つまり年間合計で24万円以上、保険商品に支払うと12万円が課税所得から差し引かれる。年収400万円会社員であれば、所得税率5%、住民税率10%で、1.8万円の節税となる計算だ。

 年間1.8万円の節税のために、月2万円の保険に加入しようと思うだろうか?保険の中身にもよるが、多くの方はこれだけ聞くとNOと答えるだろう。しかし現実では営業マンに乗せられて、多額のお金を支払って、節税した気になっている人は多い。

 株式投資も同じである。あくまでも資産形成のためのいち手段であって、NISAなどの優遇措置があるからと、何となくでこれまで貯めたお金を、投資にまわしてしまうと、暴落時を含み損を見て、こんな筈ではなかったと後悔する可能性が高い。

 大切なのは、人生の目的が何であるか。それを叶えるために必要な手段は何か。その手段として最も適当なものは何か。と俯瞰しながら掘り下げて、本来の目的であったり、軸がブレていないかを、定期的に再認識する作業ではないか?

 株式市場に過熱感が見られる時ほど、投資そのものが目的となっているかのような行動を取っていないか?と自問自答する価値は、目先の含み益以上にあると思う。

手段としての投資は人生哲学に直結する。

 私が投資の世界に足を踏み入れたきっかけは、高卒で最初に就いた企業が、あまりにも薄給ブラックで、フルタイムで勤めても手取り13万円と、都内の生活保護と大差ない貧乏暇なしで、自分が働く以外で、お金が得られる手段が必要だと強く思ったからに他ならない。

 賃金労働で人生の時間を、少なくとも1日の1/3を切り売りしている以上、時間を切り売りする掛け持ちはあり得ない。だから自分が働くことなく、極論で言えば寝てもお金が湧く仕組みを渇望した。

 それは自分自身の職務経験が単純作業のみと、独力で食っていける類のスキルを持ち合わせていなければ、単価を上げられる自信もなかった。それでいて終身雇用や年金制度そのものを信用しておらず、稼げなくなった時の備えは、自力で構築する他ない心理の表れだったのだろう。

 お金を稼ぐ能力も時給単価も決して高くはなかったものの、欲のなさが幸いにして、支出を抑制するのは苦でなかったため、平均以下の収入でも、平均以上の入金力を確保して、伝統的な資産である株式を、恐らく堅実に運用して、20代ながら老後資金問題を気にせずに済む程度には蓄財できた。

 しかし天は二物を与えず。20代半ばで大病を患い、漠然と恐れていた「その時」が到来してしまった。これまでの職務上の不摂生が祟って、今まで通り労働力を賃金に変えるのが、文字通り命懸けとなり、そこまでして労働者としてしがみつく価値など、天秤にかけるまでもなく早期退職。

 そうして今、万が一の事態でも、大事を取れるように蓄えた資産のうち、複利部分をアテに生計を立てている。その意味では、労働のために生きないための、手段としての投資に徹しているとも捉えられる。

 これは人生哲学に直結する部分であるため、100人に聞けば100通りの答えが返ってくるだろう。だからこそ、人生の道標を可視化ないし言語化することで、投資の距離感や温度感を測る指標として機能するのではないだろうか。


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