貨幣経済の限界。
伸び悩む日本のGDP。
GDPは社会科の授業でも習ったように、国内総生産を表していて、この数字が大きければ大きいほど経済規模が大きく、経済的に発展しているとされている。
2021年時点で、日本は米国、中国に次ぐ世界3位の経済大国であり、日本に生まれただけで、他国よりも経済的には相当裕福な生活が送れているはずなのに、なぜか国民の幸福度は先進国で最下位で、下手な新興国よりも低かったりする。不思議ではないだろうか。
米国をモデルにしている資本主義のシステムは、経済が右肩上がりであることが前提と言う暗黙の了解が存在する。ドルコスト平均法も同じ理屈で、保険の営業マンの説明もパンフレットの図解も嘘はついていないが、市場が右肩上がりでなければ得をしない核心には一切触れていない点が、個人的には気に入らない。
現在の日本のGDPはざっくり500兆円ちょっとで推移しているが、これは1990年代の水準から30年が経過した今でも、ほとんど増加していない。
年金や社会保障の財源問題、年功序列賃金と終身雇用の崩壊が平成になって浮き彫りとなったのは、生産年齢人口のピラミッドが三角形から逆三角形に転換して、経済が右肩上がりではなくなる状況に変化したからである。
1950年代には50兆円に満たなかった日本のGDPは40年間で約10倍となっていたことからも、当時は賦課方式の年金や社会保障制度も、年功序列制賃金も終身雇用も、大きな問題にはならなかったのである。
そんな背景から、勉強して、良い大学に入り、良い企業に就職して、結婚して、子供を育て、住宅を購入し、子供が成人して巣立った後は、完済済みの住宅を終の住処として、定年後に貰える多額の退職金と、十分な厚生年金で悠々自適に老後生活を営むことが、再現性の高い勝ち組の模範例と崇められていて、バブル期を体験している上の世代は、今でもこれを信じて疑わず、若い世代に刷り込んでいる。
氷河期世代以降の苦悩。
しかし、時代は変わった。バブル崩壊により企業は採用に慎重になり、高学歴社会に突入。本来なら研究機関である大学に進学する必要のない者まで、大卒資格を取得するために奨学金という名の借金をしてまで進学するようになった。
就職浪人の言葉にあるように、借金をして大学を出ても定職に就けなかったり、やっとの思いで就職したのが社会的に弱い立場である非正規雇用。奨学金の返済が重くのしかかり、自分ひとり生きていくのがやっとで、奨学金を完済して家庭を考える頃には30歳を過ぎている。
子供を望む女性であれば、高齢出産が迫っているから、迷っていられない。その反面、焦って相手を選ぶと離婚してシングルマザーとなり、大した経済的支援も期待できず相対的貧困に陥るリスクが潜む。養育もひとり当たり2,000万円程度必要と言われているから、経済的に責任を持って育てられるのは1〜2人が良いところで、日本の少子化は更に加速していく。
相応の覚悟を決めて独身貴族を選択したおひとり様も、40歳を過ぎた辺りからリストラの対象にされないかビクビクしながらしがみ付き、やっとの思いで定年を迎えても退職金は雀の涙。
終の住処と思って購入したワンルームマンションは、増加する修繕積立金の影響で、お金が出ていくだけの負動産。資産価値は暴落しているため、売却しても借金だけが残るから、仕方なくローンを払い続け、完済する頃には人口減少による供給過多で、同額で築浅の物件が借りられる有様。それなのに老後資金は2,000万円不足すると騒ぎになる始末。
30年間以上もの間、経済が停滞している日本社会を担う氷河期世代以降の若者で、一昔前のモデルケースの恩恵を受けられるのは、ほんの一握りだけの選ばれし者にのみ許された世界である。
おまけに日系企業ほど終身雇用制度が足を引っ張り、雇用の流動性が低いので、一度脱落したら元には戻れないからタチが悪い。標準的な若者が安定したレールの上の人生を送るのはハードモード化しているのは間違いない。
農家さんから貰うお米は、スーパーで買うお米より高品質。
全ては停滞している日本経済が悪いのだろうか。私はGDPを600兆円に増加させようとしていた首相とは異なり、貨幣経済自体が限界を迎えているのではないかと考えている。
見出しの例は地方あるあるで、農家さんの知り合いになると、お米はタダで貰える。
その代わりとして、自分が漁師だったら魚をあげたり、大工なら休みの日に建物の修繕をしてあげたり、労働力やモノなどの余剰を分け合うような、形を変えてお返しする村社会特有の相互扶助的性質によって、何かを得られるのである。
この時には貨幣経済は機能していない。つまり、GDPには形状されない。
しかも、このお裾分けされたお米は、市場には出回らない最上級品であることが多い。農協に出荷したお米は、ブランド毎に同じ等級で作られた他農家のお米とミックスされて、スーパーなどに流通している。当然、どれだけ高品質に作っても、一定水準を満たしていれば買取価格は一定である。こだわって作っている人からすれば、面白くない。
そうなると、最低限基準を満たしているものから順に出荷させ、規格外なら米菓や外食産業が安く買い叩く。一番良いものは自分用として取り置き、余剰分がお裾分けされている。だから、スーパーで買うものよりも高品質なのだが、貨幣経済に毒されている都会に住んでいると、それが絵空事のように感じられてしまう。
2007年公開の日本映画「めがね」に出てくるかき氷屋さんは村社会特有の相互扶助的性質を見事に表現している。価値観は人それぞれであるが、都会の喧騒さから距離を置きたい人は、執筆時点ではアマゾンプライムビデオ対象作品だから、出費を伴わずに鑑賞してみる価値はあると思う。
ナレッジマネジメント。
お米は生活に馴染みがある一例だが、本質は簿記の世界でも変わらない。財務諸表には人的資源や経験、情報、ノウハウ、特許などの価値、いわゆる暗黙知は数値化できず、バランスシートに計上する術がないのである。
最近になってナレッジマネジメントとして、数字に表せない価値を評価する組織が増えている。GAFAなどの大企業が積極的にM&Aを行うのも、表面上の資産価値に魅力を感じる以外に、企業が持つ暗黙知欲しさに傘下に収めようとしているケースもある。
未来がどうなるかは誰にも分からないが、GDPが減少することと、価値が減少することは、必ずしもイコールにはならないかも知れない。日本経済が衰退し続ける今、信用などの貨幣経済で測ることのできない、無形資産を育てることが成功への近道なのかも知れない。