期待していた報(こた)えではないけれど
才能より環境
10歳の頃、都道府県の教育美術展で特選(銀賞)を受賞した。人並み以上の美的センスと、他人にはない独創性が評価されたのだろう。
世の中、正直才能は今ひとつでも、芸術関係の仕事に就きたいと考える人はごまんといる一方で、私のように学生時代、別に美術部に所属していたわけでもないが、毎年のように校内推薦で入選して、何かしらの賞を貰っていても芸術家・クリエイター関係の職に就かない者も居る。
私は初等教育の授業に興味を示さなかったため、別に勉強ができるわけでもなければ、運動が得意なわけでもない。それならば、その才能を芸術分野で活かすべきとも考えられるが、実家が太い訳でもなく、コストが掛かる割に食えるか分からない世界で挑戦するだけの、経済的な余裕がなかったが故に、この能力は活用できず埋没する運びとなった。
多重知能(MI)理論によると、人には言語、数理・論理、空間、身体運動感覚、音楽、人間関係、内省、自然と8つの知能が備わっていると考えられている。
学校教育では主に言語、数理・論理の2つを定量化して学力として評価し、身体運動感覚は体育、音楽はそのまま評価されるが、一部の専門性に特化した学校を除けば、後者は受験で有利に働く性質の教科ではない。
副次的に集団生活をする上で人間関係、すなわちコミュ力の高い者は勉強とは違う軸で良い奴、面白い奴として重宝される程度だろう。
私は上記5つのいずれの能力も高くはなく、学校教育上、何の役に立つかも分からない空間認知能力が突出して高いことを知るのは、それから何年も先、高校生の時に受けたNR式知能検査の模試によってだ。
兎にも角にも経済的な余裕がない家庭で育ったものだから、芽吹くかも分からない芸術分野に多額のお金を賭けるよりも、手堅く手に職を付ける工業高校を選び、高卒で社会に出るのは必然だった。
私の素養がプロの世界でも通用するものなのか、今となっては分からないが、どれほど才能に恵まれたところで、周囲にその世界に引っ張り上げてくれる人が居る環境になければ、自力で這い上がる他なく、未成年の学生に対してそれを突きつけるのは些か酷であり、”親ガチャ”たる言葉が持て囃されるのも頷ける。
先立つものは金
そうして高卒で電鉄会社の駅員となった私は、4年後には見習いとはいえ電車を運転する立場となっていた。確かに子ども時代に電車が好きではあったが、別に男の子なら誰もが通る道であって、特段思い入れがある訳でもない。
世の中、鉄道会社に就職したい、運転士になりたいと思う人はごまんといる一方で、私のように、成り行き任せでそのポジションに就いてしまう人間も一定数居るのだから、社会とは不思議なものだ。
しかし、鉄道員は花形職業のイメージとは裏腹に、労働集約型産業で賃金が安い。国交相のパブリックコメントで、同業他社が13連勤手取り14万電鉄と揶揄される程度に薄給。そして激務。なにより他人の命を預かっているため重責と、わざわざ職に選ばない三拍子が揃っている。
この業界に特段思い入れがある訳でもないドライさも相まって、新卒で入社した時点で、定年まで続けるつもりは微塵にもなく、30歳までに業界から去るつもりで居た。
とはいえ、”先立つものは金”の言葉にもあるように、ここぞと言う時に身動きが取れるよう、本業の残業以外でお金を増やす手段がないか考えるようになり、資産運用に興味を持った。
そうして投資の種銭を貯め2年が経過し、20歳(当時の成人)になった段階で旧NISAが利用できるようになったため証券とNISA口座を開設。当時はまだ信託報酬の安い米国や全世界株式のインデックスファンドがなかったため、試行錯誤しながら運用していた。
しかし、この過程で金融や経済の知識不足を痛感し、コロナ禍を機に学び直しを決意。ついでに最終学歴も塗り替えようと、通信制大学に在籍し、時々給付型奨学金を頂きながら経営学を中心に学び、通学部と同じ4年で卒業しただけでなく、簿記やFP2級を取得できる程度の知識を得たことで、資産運用のパフォーマンスも改善された。
持たざる者にのみ与えられる特権
ここまで読んでいると、筆者は環境要因で仕方なく工業高卒で社会に出ているだけで、実は元々の能力値が高いのではないかと勘違いされる方もいるかも知れないが、単なる器用貧乏という奴である。
それに、コロナ禍で大病を患ったことで、30歳までに辞めるつもりだった鉄道員も、20代半ばでピリオドを打つ運びとなった。
外出自粛が叫ばれる中、家と会社の往復しか出来ず、ただでさえストレスが溜まり、ガス抜きのできない環境下で、通信とはいえ大学で単位を取りつつ、先述の資格試験までこなしていたのだから、無理が祟った以外の何者でもない。
元々ここぞと言う時に身動きが取れるようにするための保険として、自分の代わりにお金にも働いて頂く資産運用を始めたのだから、大きな病気をして生きるか死ぬかのサンライズ瀬戸際でこれを活用しなければ、使い所など未来永劫ないだろう。
周囲から電鉄会社を辞めるなんてもったいない的なことも言われたが、生きるための仕事ごときにしがみ付いたがために早死して、結果として仕事のために生きた人生となったら本末転倒であり、どう考えても仕事を辞めるより、しがみついて命を削る方がもったいないため、迷わずドロップアウトを選んだ。
そうして今は株取引で生計を立てる傍ら、このnoteで文章を書く形で、細々と持続可能な創作活動の形を模索している。少なくとも学生時代には想像していなかった未来であり、期待していた報(こた)えではないけれど、現状に割合満足しており、人生成るようにしか成らないのだとつくづく思う。
生きていれば、時に先行き不透明で不安になったり、逆に先行きが見通せてしまったことで、却って絶望することもあるかも知れない。
それでも、一般の事業会社で役立つポータブルスキルは皆無で、一度潰れているが故に、労働市場における需要など皆無な私ですら、自分の食い扶持は自分で確保できている。
芸術分野で才能を試せるような環境になかったことで、上流層のもとに生まれなかった不遇さを恨んだ時期もあったが、上流は権力を持つ代償として、生まれてから恩恵を受けているこの社会に対して報いる義務を持つ。当然、それが生きる上での制約ともなり得る。
裏を返せば、平民の生まれだからこそ、持たざる者にのみ与えられる、自由に生きる特権があるのだから、それを使わない手はない。そう考えると、時流という名の成り行きに身を委ね、のらりくらり生きるのも悪くないと思う今日この頃である。