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田舎暮らしを楽しむには、教養が必要


都会暮らしを楽しむには、お金が必要

 半年ほど前、今年もさっぽろ雪まつりに行けない的なボヤきを正当化するために、筆を走らせた。結局、雪まつりには行かず、その後の超が付くほどの閑散期に、カプセルホテル並みの料金で、ツインルームの一人使用、朝食ビュッフェ付きのビジネスホテルに連泊した。

 5年振りの北の大地に喜びも一入だったが、札駅からすすきのまでチカホを歩いた際に、こんなに誘惑だらけの街で、道内の若者が軒並み吸い寄せられる気持ちも、分からなくもないなと考えながら、道中のHTBコーナーと、その横のド○キホーテに立ち寄った。

 前回、チカホを歩いた際には、”誘惑の多い街”なんて印象など抱かなかった。無論、札幌界隈が5年そこらで大変貌を遂げたわけではない。だからこそ、その差にモヤモヤして、私の中でずっと蟠りとなっていたが、つい最近、その要因にようやく気付くことができた。

 身も蓋もない結論だが、この違いは私の生活環境の変化にある。5年前は東京23区、山手線の駅まで徒歩圏内の場所に暮らしていた。しかし今は地方で隠居生活をしている。

 地方とはいえ、自転車(5km)圏内でコンビニは言わずもがな、スーパーやドラッグストアが選べる程度の選択肢はあるため、車がない不便さよりも、割高なコストが嫌で所有していない。

 無論、公共交通機関の出番が多くなる訳だが、JRの鈍行列車は通学時間帯を除けば、概ね1時間に1本あるかないか。最寄りの終バスはお昼過ぎ。行きでしか使えない海原電鉄仕様のため、釜爺ボイスで「昔は戻りのバスがあったが、近頃は行きっぱなしだ」と脳内再生される。なお、40年前の使い残りの回数券は貰えず自腹を切る模様…

 そんな、何もない自慢でお馴染みの、あらゆる誘惑が皆無な地方に生活環境を変えたことで、”誘惑の多い街”=”お金を使わないと楽しめない場所”と言語化することができた。

 だから、日本中のあらゆる誘惑が凝縮されている東京都23区民として札幌に行った際は、何も感じなかった。これは、資本主義ありきの文明社会において、都会暮らしを楽しむためには、お金が必要なことを暗喩している。

資本家の掌で転がされているだけのラットレース

 東京は遊びに行く分には良い所だが、住む場所ではない。これは私に限らず、都会暮らしに疲れた方であれば共感して頂けると思うし、上京願望のある若者に対して、老婆心から口を揃えて言う常套句でもある。

 しかし、なぜ私が都会暮らしがつまらないと感じたのか、今になって振り返ってみると、お金を使わないとあらゆる娯楽にアクセスできない街で、蓄財に励み、殆ど使わなかったからではないか。という仮説が成り立つ。

 蓄財に必死だったのは、「金持ち父さん 貧乏父さん」に出てくる「ラットレース」の概念を知ったことで、いかに早期に労働者から資本家側にシフトするか。それ以外のことは考えていなかったからに他ならない。

 サラリーマンは、人生の時間を切り売りする労働によって、社会に付加価値を生み出し、その対価として賃金を受け取るが、多くは資本家にピンハネされる。そのお金で生活したり、ガス抜きで娯楽を楽しむが、金銭消費をすることでまた、企業のオーナーである資本家の懐が潤う。

 残酷だが、サラリーマン人生など、資本主義社会の頂点に位置する、資本家の掌で転がされているに過ぎない。そう考えると、良い大学を出て、大企業に入り、やれ出世コースがどうとか、社内政治がどうこうと駆け引きをしては、赤提灯で愚痴りながら一杯引っ掛ける。

 そんな変わらない毎日を繰り返しては、妖精さんとして定年までぶら下がって退職金を貰い、慎ましやかな老後を迎えるみたいな、多くの人が漠然とイメージする人生など、あまりにも狭い視野で世の中を見ているように思えてならない。

お金で幸せが買えるという幻想

 そんなラットレース参加者が夢見る豊かな生活は、往々にして高級車や高級ブランドで身を纏い、タワマンのペントハウスに住んでは、ケータリングで美味しい食事とお高いワインを飲むみたいな、どこまで行っても金銭消費を前提とした、資本主義社会の枠組みにハマり続けている。

 その根底にあるのが、お金で幸せが買えるという幻想だろう。確かにお金があることで選択肢が増える。ないよりも、あるに越したことはない。しかし、選択肢が増えることで、不幸を避けることは出来たとしても、それが直ちに幸せに結びつくかは別問題だろう。

 そうでなければFIREムーブメントで、いざ年間生活費の25倍を貯めて、経済的自由を手に入れた筈の人たちが、その自由に耐えきれなくなり、FIRE卒業なんて事態にはならない筈だし、選択肢があること(=自由)が良いことであれば、民主主義となったドイツで、ナチスのファシズムが台頭したことも説明が付かない。

 後者を分析した哲学者のフロムは、「自由からの逃走」の中で、「自由の下、幸福に過ごせるかは自我と教養の強度による」と唱えている。つまり、幸せな生活を送れるか否かもまた、自我と教養の強度により、お金は直接関係しないと考えるが、いかがだろうか。

 しばしば「田舎には何もない」と、そこに住む人々はボヤくが、厳密には「資本主義の一部として組み込まれた娯楽が何もない」が正しいだろう。

 花鳥風月に明け暮れるには生物、植物、気象、天体の知識が必要だし、名水や温泉が湧き出る場所なら、水質、泉質はもとより、その性質となった背景まで理解しようと思うと、地理や歴史の知識も必要だろう。

 そうした教養がないと、キレイな景色とか、良い湯だった的な、浅い感想に終始してしまう。田舎は資本主義的な娯楽・誘惑が乏しいからこそ、自らの知恵と工夫により娯楽を創り出す必要があり、それが出来ない人は、田舎暮らしはつまらないと、刺激を求めて都会に出ていくのだろう。

 田舎暮らしを楽しむには、教養が必要なのだ。無論、価値観は人それぞれあって良いと考えるため、どちらが良い悪いと白黒思考で語る意図はない。都会はお金さえあれば誰でも楽しめる意味で、残酷ではあるが平等でもある。

 ただ、あまりにも日本中で資本主義社会ありきの、都会のロジックに染まり、東京の真似事をしては、どこも似通った街並みと、ロードサイドのチェーン店に終始し、地域の特色を活かしきれていない。

 敏腕市長の高島さん率いる福岡市のような例外もゼロではないが、どこもかしこも東京の二番煎じ感が強い現状を鑑みると、現代人に必要なのはお金というよりも、むしろ教養なのではないかと思う今日この頃である。


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