資本家の手のひらで踊らされる労働者。
生活のために働くは本当か?
先日、FNNの取材で会社員のズル休みを肯定する記事が話題となった。確かに、自分の心身は変えが効かない。だから、社会が自己責任論で終始する以上、壊れる前に例え仮病でもズル休みでも構わないから、自分の身は自分で守るのが鉄則である。その点では私も肯定派に位置するだろう。
とはいえ、そもそも論、そんなに無理をしてまで仕事をしなければならないのか疑問ではある。何のために仕事をするのかと問われれば、9割以上の方は「生活のため」と回答することだろう。だからこそ、どんなに辛くても、やる気がなくても、しんどくても生活のために仕方なく働くという認識だろう。
だが、よくよく考えてみると、そうして人生の時間を切り売りして得た賃金の何割を、生活費用に充てているだろうか。多くの人は2割程度が生活のための必要経費で、8割が欲求を満たすための金銭消費ではないかと考えている。
生活するのために必死で働いていると思いきや、実は生活費用は全体の20%であれば、「生活のため」とは言えない。感情的には否定したくなるかと思われるが、少し深掘りしていきたい。
お金の多くは欲求を満たすために使われる。
経済学の世界でパレートの法則たるものが存在する。「全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出している」と定義されているが、これを生活に置き換えると、「生活費用の8割は、2割の金銭消費で成り立っている」と仮定することができる。
ここで前提条件として、生活費用というのは、家計簿上における費用計ではなく、バビロンの大富豪の7つの知恵にある、「自分の欲求と必要経費とを混同しない」の考え方が土台となっていることを補足しておく。
私なりの解釈としては、食費であれば、日本人は完全栄養食である玄米と味噌さえあれば、生きていくのに必要な栄養素の大半を補えると考えている。これは、日本が経済大国となる以前に生きていた、先人の方々が証明済みだから、食事における必要経費は玄米と味噌代に収斂する。
しかし、肉や魚、野菜や果物などを、食べたいという「欲求」は存在する。もちろん、この欲求を否定するつもりは微塵にもない。ここで伝えたいのは、欲求を必要経費と思い込んで、生活コストを無意識に吊り上げる行為が良くないのである。
だから、私は生物としての根源的な欲求を満たせる最低限の費用のみを「必要経費」、それ以外の部分を自身の「欲求」と捉えてお金を使うように心掛けている。
衣食住なら、着るものは古着で良ければ数百円で揃えられる物を、新しいものが良いという欲求から新品を買ったりしている。この場合、古着なら300円で済む物を、ユニクロで1,500円支払うのであれば、必要経費に300円、欲求に1,200円支払っている計算になる。
この理屈だと、毎月の食費は玄米10kg(1日2合計算)と味噌適量で必要経費は5,000円程度なものである。そこに主菜、副菜、間食、外食、お酒代などで1万円程度上乗せされているが、これらは全て欲求と認識している。
住環境に関しても賃貸の場合、終の住処ではないケースが大半と思われるため、住みたいかの感情は一旦置いておき、地域の最安値から順に、物置向けなど人が住まない前提の物件を除外した上で探し、最低限生活できそうな物件の価格が必要経費となり、そこから超えた差額は快適に暮らしたい欲求と言える。
そう考えると、日本における生活の必要経費というのは、単身者であれば家賃+1万円そこらと恐ろしく低廉で、生きるためにフルタイムで労働して、毎月十数万円の賃金を得る必要はなく、欲求を満たすために働いているという仮定が少しは理解されるのではないかと思う。
これからの時代を強く生きる。
話はFNNの記事に戻る。仕事に行きたくない時の乗り越え方として、カフェ、飲み会、休日の過ごし方、ご褒美などが挙げられているが、これらの娯楽には金銭消費が伴う。金銭消費の伴う娯楽を否定する意図はないものの、日常の不満から一時的に逃避するためにお金を消費した場合、消費した分だけ働かなければならないのは紛れもない事実である。
これによって儲かるのは、カフェ、居酒屋、娯楽を売ることを生業にしている会社の株主、いわゆる資本家である。テーマパークや旅行も誰かのビジネスのためであり、労働者はせっかく手に入れた賃金を、何に使ったかも覚えていない小さな欲求を満たすために浪費しては、さらに労働するという円環を繰り返すことで、資本家の手のひらで踊らされるのである。ロバート・キヨサキ氏は自著でこれを「ラットレース」と称している。
不満の元凶となっている労働を行わなければ、不満が解消できない円環構造を打破するには、そもそも不満発生装置である労働に依存せず、必要以上に消費しないことではないだろうか。
それができたら苦労しないという声が聞こえそうだが、これは一度社会の枠組みから外れたら、元に戻れない日本特有の村社会的な、身内に甘く、よそ者を排除する風潮から醸し出されている閉塞的な社会環境故に、村八分にされることで路頭に迷うことを恐れているからではないだろうか。
良い成績を取り、良い大学を出て、一流企業に就職するような、レールの上の人生を歩んできた人ほどレールから外れることを恐れる。しかし、日本ではレールから外れても生活保護というセーフティーネットがあるのだから、餓死することはない。
最悪ホームレスとなっても、宗教団体の炊き出しが頻繁に行われていたり、冬前に寝袋を支給していて死ぬことはない。行政も数回まで被保険者資格を喪失していても、保険治療の費用を肩代わりしてくれたり、銭湯の利用券などの配布を行うなど、どうせなら住所取得させて生活保護の手続きしたら?とは思うものの、ナマポほどコストが掛からないため、支援策もゼロではない。
国全体が豊かになったことで、必要最低限な生活コストは下がっているはずなのに、終わりのない更なる豊かさを追い求め、他人と比較しては不幸になっている。お金があるなら資本家側にまわるのが得策だが、無いなら無いなりに、大量消費社会のアンチテーゼ的な立ち位置で、極力金銭消費を行わず、貨幣経済に依存しない生き方を模索するのが、中流層が没落していく今後、必要とされる強い生き方のひとつなのかも知れない。
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