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自滅の道を進む地方社会?


よそ者扱い?同じ県民なのに…

 過日、旧友が遊びに来たため、県内のB級グルメ店で看板商品を注文し、店内のイートインスペースで食べていたところ、よそ者は早く出ていけオーラがプンプンしていて居心地が悪かった。同行していた旧友と見解が一致しているのだから、決して勘違いではない。

 どん兵衛の出汁を基準にすると、現在は関ヶ原より西に住んでいるものの、生まれも育ちも関ヶ原より東だったことから、言語は至って標準語。イントネーションも東側のため、西側の人からすれば違和感にも似た胡散臭さ、煎じ詰めれば”よそ者感”丸出しなのだろう。

 しかし、方言やイントネーションは違えど住民票上は同じ県民である。何とは言わないが島国の中の島ほど、未だに前時代的な、よそ者に排他的な文化が根強く残っている傾向にあり、”多様性の時代”とは何か考えさせられる。

 無論、こうした前時代的な昭和100年を地で行く村社会は、往々にして男尊女卑の傾向にあり、女子学生ほど進学を機に上京して、それっきり戻って来ない。

 一方で、跡継ぎとなる長男は地元から離れることができず、結果として都心部では女余り、地方では男余りの歪みから、少子化が加速している感は否めない。

 そうして若年女性の人口が減少していくことで、将来世代が減少し、消滅可能性自治体が近い将来に表面化する意味で、前時代的な価値観を保持する地方社会は、進むべくして自滅の道を進んでいるとも捉えられる。

地方社会における若者の役割

 とはいえ、これは都心部で生活している側のロジックで考えた限界集落化する地方像であり、実際に消滅可能性自治体に移住してみた私の感想としては、むしろ都心部の方こそが、高齢化により苦しくなるのではないかと踏んでいる。

 確かに地方は上記の要因もあり、学生を見ることはあっても、進学を機におらこんな村嫌だ理論で出ていくため、20代は絶滅危惧種レベルで見ない。それゆえに生産年齢人口が足りず、労働力不足で首が回らなくなる。

 そもそもお母さんになれる可能性のある女性が居なければ、将来世代が生まれて来ないのだからジリ貧。普通に考えたらそうかも知れないが、既に地方では若者の力を借りずに、元気な年寄りが、扶助を必要とする年寄りを支える老老介護もとい世代”内”扶養システムが構築されつつある。

 これが何を意味するか。地方経済のシステムは、老朽化している感は否めないものの、先述した世代内扶養により、元気な高齢者だけで回せるよう、好むと好まざるとに関わらず変化していく。

 つまり、絶滅危惧種レベルで希少性を持つ若者は、生活インフラを支える役割を積極的に担う必要がなく、むしろその希少性から、先行きが暗い状況を打破するための改革やイノベーションを期待され、権限移譲が進む。

 単なる妄想に映るかも知れないが、実際に高齢化率の増加が著しい自治体ほど、事実上の大統領制である首長で、若手が選ばれ始めているのは、芦屋市、大館市や、少し前の安芸高田市、徳島市を見ても明らかだろう。

あらゆる負担を現役世代に押し付けてきたツケを支払う未来

 地方では今後、世代内扶養システムにより、主に元気な高齢者が社会を支える役割を担い、若者に権限移譲が進む一方で、都心部はどうだろう。

 団塊ジュニア世代以降、おらこんな村嫌だ理論で主に東京に若者が吸い寄せられた結果、一極集中しているのは間違いないだろう。裏付けとして、銀行業界で団塊世代が亡くなった後、遺産相続で地銀に散らばっていたお金が、メガバンクに集約されると予想されている。

 しかし、その団塊ジュニア世代も2025年現在、51〜54歳と都心部では決して若くない。2036〜39年頃から年金が受給でき、60歳で繰り上げ受給すれば最大24%減額とはいえ、5年も早められる。

 地方のロジックだと、若者が居ない以上、まだまだ元気なら絶対的な労働力不足を補うために、何かしらの形で社会に労働力を供給して世代内で扶養する空気感がある。

 しかし、都心部は若者が吸い寄せられて、黙っていても来るため、氷河期世代だったことも相まって労働市場に居場所がない可能性が高いことから、何の抵抗もなくリタイアメント生活に移行できる。

 つまり、団塊ジュニア世代がリタイアと共に故郷に帰ることなく、引き続き都心部で年金生活を始める前提で、現行の社会保障制度を維持した場合、2036年以降に都心部では絶望的な生産年齢人口不足となることが、人口動態で予期される。

 それに加えて、都心部では貨幣経済のロジックが幅を利かせている。介護を受けるにも、医療を受けるにも、必要なのはお金であり、だからこそ老後資金2,000万円不足問題が、あれほどまでに物議を醸した。

 一次産業従事者の割合が多い地方では、収穫物の余剰を贈与し合うことによる、時間差での物々交換を行っており、貨幣経済に依存する割合が都心部よりも少ない構造上、必要なのはお金(金融資本)よりも人徳(社会資本)だったりする。

 そして、その面倒で煩わしい村社会のコミュニティに無条件で受け入れて貰えるのは、その土地で生まれ育った者だけであり、よそ者が受け入れられるには並々ならぬ労力を必要とする。

 資本主義の一部として組み込まれた娯楽が何もない地方の出身者が、一度は都心の煌びやかさに惹かれたり、憧れて上京するのも無理はないし、人生経験として悪くない。

 しかし、上京したところで現実は、金銭の多寡が全てみたいな資本主義のロジックに毒されるのが常で、多くのサラリーマンが上がらない給料と上がり続ける税金と物価で疲弊し、死んだ魚の目で満員電車に詰め込まれて通勤する。

 お金さえあれば何でも手に入る便利な都会暮らしや、その裏側に潜む資本主義に疲れた際、地方出身者には故郷に帰る選択肢がある。帰った先で居場所がある。

 取るに足らない首都圏のベッドタウンで育った私には、そんな選択肢も居場所もなく、骨を埋める覚悟で移住先に馴染むか、ただただ資本主義の枠組みに嵌り続ける他なく、仕方なく後者を選んでいる格好だ。

 だからこそ故郷は大事にするべきだ。都心部ではあと10年もすれば、団塊ジュニア世代が生産年齢人口から抜け始め、ただでさえ高齢者で溢れ返っている街中が更に加速する。

 その一方で、それを支えるであろう現役世代の労働力は、絶望的に不足する。その頃に地方から夢見て上京するにも、求人は介護職ばかりかも知れず、都心に希望のかけらもなくなれば、東京一極集中の歯車は逆回転する。

 熱心な読者は薄々お気付きだと思うが、ここでタイトル回収をすると、自滅の道を進むのは地方ではなく、むしろ都心部だと踏んでいるのが自論だ。

 黙っていても若者が吸い寄せられることにあぐらをかいて、あらゆる負担を現役世代に押し付けてきたツケを、吸い寄せては使い潰して来た団塊ジュニア世代のリタイアと共に、都心は支払わされる気がしてならない。

 養老孟司先生の言葉を借りるなら、「お金なんて約束事だから、いつ価値が消えるか、わかったものではない。」

 価値の裏付けがない不換紙幣である以上、お金とは労働力との交換を約束するものであり、その労働力を若者に頼り切っている都心は、若者が寄り付かなくなったり、逆に地方の権限移譲に魅力を感じて移住し始めたら、瞬く間に立ち行かなくなるだろう。

 そう考えると、元気な高齢者で一応機能している地方ほど、却って約束が守られそうだと思うが、いかがだろうか。


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