資産持ち社畜=無敵の組織人
いつ辞めてもいいと思いながら労働できる、心の余裕
私は高卒で社会に出たこともあり、20代前半のうちに資産が1,000万円の大台に達した。同級生が大学で人生の夏休みを謳歌している最中、私は労働者として、お前が終わってんだよwwwと貶められるレベルの薄給激務で、公共交通を現場で支えて消耗している社会の歪さに危機感を覚えた。
それにより、固定費をはじめとする支出の見直しで家計を引き締めるのと同時に、所有物の整理で炙り出された不用品の売却、自己投資や転職による収入増を実現し、呼吸するのと同じくらい自然に貯蓄できる状態となった。
その過程で、100万円、200万円、300万円…と歳を追うごとに預金残高が増えていくと、このまとまった余剰資金を運用した方が良さそうだと漠然と考えるようになり、その矢先に成人(当時は20歳)となったことで旧NISA口座が開設できたのを機に、資産運用の世界に踏み入れる運びとなった。
とはいえ、当時はまだeMAXIS Slimシリーズのような、運用コストが低水準の投資信託がなかったこともあり、旧NISA(一般)で日本の個別株を運用しつつ、非課税枠に収容しきれない余剰資金をロボアドと仮想通貨に突っ込むという、今の知識と経験があったら、絶対にやっていない高コストやハイリスクな投機にも手を出した。
そうして手痛い失敗を含めた試行錯誤を繰り返すうちに、当初は年間100万円の捻出がやっとだった、私の取るに足らない入金力とは裏腹に、資産は毎年200万円前後の規模で増え続け、アインシュタイン博士が人類最大級の発明と絶賛した、複利の魔力を実感していた頃に、気づいたら1,000万円という大台に達していた。
中年〜壮年から見れば1,000万円など、住宅の頭金で吹き飛ぶ金額かも知れないが、社会人1年目の可処分所得が240万円に満たなかった私からすれば、今すぐ目の前のブルシットジョブを辞めても、4年分の収入に匹敵する蓄えがある意味で、いつ辞めてもいいと思いながら労働できる、心の余裕が生まれた。
偉そうな奴ほど虚勢を張り、お金持ちほど等身大
煎じ詰めると、お金を持ったことで、お金に執着しなくなり、生活残業を断捨離した。シフトワークの鉄道員は「残業=誰かが入る筈だった、穴の空いたシフトにそのまま入る」ことが基本であり、24時間の泊まり勤務の後に、もう24時間の泊まり勤務(残業)を行う、48時間拘束の勤務がザラにあった。
国交相のパブリックコメントに、13連勤手取り14万電鉄と揶揄される(マジレスすると、残業しなければ手取り14万円はあり得るが、13連勤=残業して手取り14万円は、社宅や生保などで天引きが相当な額でないとあり得ない)程度に薄給激務故、同期や先輩方は生活残業に必死で、時代は電気鉄道にも関わらず馬車馬よりも働いていた。
2024年の現在ほど人手不足が深刻化していなかった当時は、若手社員の生活残業に頼りきる形で人員不足が賄われていたが、その中で私は上から依頼された残業を、あくまでも任意で、法的拘束力がないことをダシに悉く断っていた。
十中八九嫌われていただろうが、お金持ち特有の余裕により、人によく見られたい的な欲求もないことから、いつ辞めても構わない無敵の組織人として、冷やかし半分で適当に労働していた。
お金を持つことで、お金を持っている奴が偉いという勘違いを起こすと、カイジ利根川の「金は命より重い」にも似た、鼻持ちならない成金と紙一重だが、実際問題、殺人よりも貨幣偽造の方が罪が重いことから、司法のロジックでも「金は命より重い」のは紛れもない事実だ。
おまけにブラック企業にありがちな「嫌なら辞めろ、代わりはいくらでも居る」と、新入社員教育で言われたことから、ことある毎に「代わりはいくらでも居るんだろ?」と特大ブーメランで煽り返していたことで、次第に残業依頼が来なくなった。組織内で働かないアリのポジションを確立した瞬間だった。
そもそも、なぜ人によく見られたいと思うのか。自分の実像が大したことないから、虚勢を張りたい的な深層心理が表れているだけではないだろうか。
お金持ちになると、並外れた資本力という実像が伴うからこそ、等身大で心の平穏が保てる。これは某ジブリ作品の、湯婆婆に名前を奪われる行為に等しい雇用契約において、労使間で対等な関係を保つ上で重要な要素と言える。
その裏付けとして、尺の都合で没になった絵コンテの中に、釜爺が「風呂屋にいるのも出ていくのも自由さ。本当の名前を魔女には秘密にしているからな」がまさにそれを体現していて、”小金持ち”という本当の名前を魔女(=雇用主)には秘密にしておくことで、歴とした労働者として、自由意思でここで働くか、辞めるかを決められる。
話を戻すと、お金持ちほど等身大で通用するからこそ、見栄や背伸びをして取り繕ったり、虚像をでっち上げるために嘘をつく必要もなくなる。だからブランド品や高級車の類は、そういう趣味がない限り興味が湧かず、結果として質素に淡々と暮らしているものと考えるが、いかがだろうか。
裏を返すと組織の立場上、人の上に立つポジションに就き、勘違いして偉そうに威張り散らかしている上役ほど、自分の大したことない実像を客観視できていない、非常に残念な愚か者とも分析できる。
いつ辞めてもいいと思っている人間が、本当に辞めるとき
そんな残念な愚か者もとい偉そうな上役の指示に嫌気がさしては、半ば呆れながらブルシットジョブで資産運用の種銭を捻出してきた私だが、コロナ禍で自粛ムードとなり、ガス抜きができずに会社と家を往復する日々を2年弱過ごした結果、シフト勤務の不摂生とストレス過多で内臓を悪くして入院、手術、ドロップアウトと、トントン拍子で見切りをつけるに至った。
20代前半に資産1,000万円の大台に達してから、いつ辞めてもいいと思いながら冷やかし半分で労働していたが、20代半ばで身体を壊したのだから、積み減らす時は今しかないと入院中のフランスベッドの上で決意し、休職手当や傷病手当金などの弱者に与えられる権利をフルで行使した上で、本当に辞めた。
いつ辞めてもいいと思っている人間が、本当に辞めるのだから、今辞めたら路頭に迷って後がないと恐怖心に怯えながら脳死で働き、その日その月のことを考えるだけで精一杯な暮らしをしている人は、例えどれほどブラックや、それすら通り越して漆黒であっても、詰みになるまで辞めるに辞められない訳だから、堪ったものではないだろう。
世間には花形職種と思われている鉄道業界の正規雇用ですら、クソどうでもいい仕事で低賃金な体たらくなのだから、下を覗いたらキリがない。
そんな異常な社会で自分の人生を歩む主導権を奪還するには、無理に労働という名の時間の切り売りをしなくても、目先の生活には困らない程度の資本力や自給自足のような自活スキルを身に付けるのが、その第一歩となるだろう。
そうして、家計簿上で賃金労働に依存せず暮らせる比率を、時間をかけて徐々に高めていき、最終的に労働力の切り売りに依存せず暮らせるようになれば、晴れてレール上の人生から離脱することができる。
これがいわゆるFIREだが、取るに足らない社畜が頂を目指す過程は長いため、5合目辺りから味わえる無敵の組織人の光景を味わいながら、時間をかけて登っていくのも乙ではないだろうか。
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