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底まで落ちたら掘ればいい。

その発想はなかった。

 「どん底に落ちたら、あとは上がるだけ」慰めの常套句である。しかし、イタリア人ジャーナリストであるピーノ・アプリーレさんの著書「愚か者ほど出世する」の本文には、「底まで落ちたら掘ればいい、とだれかが言った」とあり、イタリア人特有のジョークを交えつつ、真理も伝える技術の巧みさに脱帽する。

 この「どん底に落ちたら掘れ」と言う、日本人には絶対に思い付かないような、キャッチーなアイディアは養老孟司さんが絶賛しており、本書の前書きに記されているだけでなく、対談のネタとしても用いられた。

 そのため、切り抜き動画などを通じて知っている方も多いかも知れないが、本書の意味合いとしては、社会階級の最底辺まで落ちたところで、更に仕事を細かく単純化、分業化させることで、より一層簡単な仕事(=下の階級)を生み出し、結果として馬鹿が蔓延ることを示唆している。

 これは私がことある毎に多用している、パーキンソンの法則「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」の基になっている。こちらは第二法則だが元来、役人の数が仕事の量とは無関係に増え続けることから、「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」を第一法則としており、無駄な中間管理職塗れのイメージそのままである。

 だから「底まで落ちたら掘ればいい」は、あまり良い意味で使われていないものの、イタリア人のこの発想としぶとさは、習得できると山あり谷ありの人生において、谷で絶望しないだけの価値があるように感じられてしまうのが不思議である。

金脈が社会の中にあるとは限らない。

 と言うのも、私自身が人生で落ちる所まで落ちた感があり、現状がある意味掘削作業中な気がするからである。

 高卒で鉄道会社に就き電車を運転すると言う、世間一般の感覚からすれば、学歴の割には当たりくじを引いていた部類だったのかも知れない。しかし、決められたことを決められた通りに実行するだけの単純作業である運転業務に嫌気が差した頃に、疫病禍となり安定と言われていたのに赤字に転落。

 賃金にメスが入れられ減給となる中、社会的に必要とされているのか、疫病の味方をしているだけなのかよく分からなくなり、バーンアウトした矢先に大病を患い入院、手術で身体にもメスが入れられボロボロな状態となった。

 転職をしようにも非大卒やスキルの溜まらない作業から潰しが効かず、専門性が高すぎて他業種に活かせない経験しか有していないため、ネームバリューのある企業の正規雇用で、経歴に空白期間もない状態でありながら、転職市場においてポテンシャル面でも即戦力としても評価されず、年収300万円の仕事ですら書類が通らない、謎な20代が完成しており、完全なる袋小路と化した。

 多少失敗したとしても、やり直しが効くのが20代の筈なのに、高校を卒業して以降、正規雇用、空白期間なしと、社会的に一切失敗していないどころか、一定の割合で羨ましがられるような道を、偶然とはいえ進んで来たにも関わらず、やり直しが効かない閉塞感ばかりが募るのはどう考えても社会がおかしい。

 世間が立派だとする道に進んだ結果、社会システムの枠組みからこっそり外されて、進路が変えられない(=分岐器のない)レールの上を走らされていたのである。それならば、いっそのこと自分で無理矢理でも脱線するまでで、それが金融資産運用による経済的な独立にあたる。

 もちろん、工業高校を出て鉄道員になっているのだから、株式投資のことなど何も知らなかった。それでもやりながら学ぶを繰り返した結果、市場平均よりも高いリターンを何年も叩き出すようになり、資産所得でも食べていけそうな資産規模まで、運よく膨らませることができた。

 労働者としては社会不適合者故に、日頃の無理が引き金となり底まで落ちた私だが、入院中に無理して元居た世界へ這い上がろうと思わず、ある種の開き直りで違う方向に掘り進めてみたところ、投資家として生きる金脈を引き当てたのである。

思い詰めず陽気に生きる。

 とはいえ、早期退職に至るのは来年度からで、社会の枠組みから外れた生活がこれから新しくスタートするに過ぎず、果たして持続可能なのか、枠組みから外れたら、外れたなりの価値があることをどこまで信じられるかなど、未知数な部分は数多く存在する。

 それでも、やってみなければ分からないし、どん底に落ちたと思い込んで、掘り進めた先が二番底の可能性も十分あり得る。ましてや社会システムの枠組みから外れるのだから、大衆が思い描くような底なし沼の可能性もある反面、案外どうにでもなって大したことがないかも知れない。

 多くの人が経験したことのない領域のことを、あれこれ考えたところで分からないものは分からないし、他に人柱が居たとしても、自分と全く同じ条件や環境はあり得ないのだから、自分自身を実験台にして身をもって体感するまでである。

 そうやって得た知見を無償、無条件、無目的に放出した結果、どん底に落ちた絶望感から、発作的に身を投げる不幸な人が少しでも減れば幸いである。

 未来に希望が持てない日本の若者には、イタリア人の陽気さが必要だと思いながら、今日もパスタを頬張っては、MacBookの画面にソースを被弾させつつ、GarageBandのItalo Disco Patternsで遊んでいる。


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