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まず、自ら試みるべし


批判したいなら、まずは同じ環境に身を置く

 公職選挙法違反など、何かと話題に事欠かなかった東京都知事選だが、私はすでに都落ちしていて、誰が首長になろうと、直接的には何ら影響しない。

 とはいえ、4年前はネタ枠の後藤輝樹氏に投票したのも事実で、たった4年前は都内に居住して電車を運転していたと思うと、人生いつ何が起きるかわからないものだと、当時を振り返りながらつくづく思う。

 回顧バイアスという名前が付いているように、人間はしばしば過去の記憶が美化されてしまう生き物らしいが、私は根に持つタイプの人間なので、主に賃金労働はクソである信念は、当時のまま変わらない。

 今思い出しても腹が立つのは、運転免許を持っていない上役が、運転に口出ししてきたことだ。自分が出来もしない、やってもいないことを批判できる傲慢さには、怒りを通り越して呆れる他なく、何度「じゃあテメェがやれよ」を、それっぽい京ことばに変換して一蹴してきたことか、両手両足では数えきれない。

 そんなクソみたいな原体験があるおかげで、おそらく、老後のガソリン代わりにドクペを飲み続けたエリザベス・サリヴァンさんのように、「忠告した医者は皆死んだ」みたいなことが言える日が来るまで、この記憶は美化しないだろう。

自己啓発の真髄が集約されている「学問のすすめ」

 何事もそうだが、自分自身でやったこともないことを、イメージだけで批判する人間がSNS界隈・現実世界問わずまぁ多い。基本的に賃金労働など、誰かがやりたくないことを、賃金をエサに代行しているに過ぎないのだから、リスペクトされて然るべきで、接客経験上、よくもまぁ心無いクレームが言えるものだと人間性を疑う。

 これは何も賃金労働者に限らず、自営業者、経営者、投資家に関しても、相応のリスクを背負っているのだから、どんな職業であっても、自分がやったこともなく批判するのは、筋違いにも程があると考えるが、いかがだろうか。

 この考え方の原点となっているのは、先日、旧札となってしまった、福沢諭吉先生の「学問のすすめ」に、自己啓発の真髄となる要素が集約されているからに他ならない。

”そこで後輩の青年諸君に少しく忠告したい。
他人の仕事を見て気に入らなければ、みずからその事に当たって体験してみるがよい。
他人の商売を見てまずいと思ったら、自分でその商売をしてみるがよい。隣の家の所帯が不行き届だと思ったら、自分の家で試してしてみるがよい。他人の著書を批評するには、自分も筆を執って本を書くがよい。学者を評するには学者となり、医者を評するには医者となってみることだ。
事の大小を問わず、いやしくも人の仕事を批判したければ、ためしに自分をその地位に移して、自分で自分を観察すべきである。もしも批判の対象が、自分の職業とまったく無縁の場合は、その仕事の性質の難易・軽重をよく推し量って、たといそれが自分に経験のない仕事でも、自分の職業の実績と相手のそれとを比較対象することだ。そうすれば、ほぼ妥当な批判がくだせるに違いない。”

現代語訳 学問のすすめ|福澤 諭吉,斎藤 孝

 余談だが、ごく稀に私がリンク先の記事を「情弱を煽ってPVを稼ぎたいだけのクソ記事」的な酷評ができるのは、自分自身がこのnoteで著述して、程度の差はあれ収益を得ているからであり、少なくとも同じ立場から批判している分、それには妥当性があるものと考えるからだ。

投資家が楽して儲けていると思うなら、やってみなはれ

 極端な話、生活保護がズルいと思うなら、自分が生活保護になってみれば良い。住民税非課税世帯ばかりバラマキしやがってと思うなら、自分が住民税非課税世帯になってみれば良い。高卒が学歴フィルターで嫌な思いをして、大卒の何が偉いと思うなら、自分が大卒になってみれば良い。お金持ちがズルいと思うなら、自分がお金持ちになってみれば良い。

 愚痴をこぼすだけでは、非情にも時間が過ぎて歳を重ねるだけで何も変わらない。批判したければ、まずは自分が同じ立場となり、その経験を踏まえた上で結論づけるべきだろう。それが妥当な批判というものではないだろうか。因みに上記で挙げた例は、生活保護を除いて私が実績解除したものを列挙しており、性別変更が試みれないのが若干心残りではある。

 世間一般では、お金持ちや個人投資家に対して、楽して儲けている卑しい存在的なイメージを持たれがちである。確かに賃金労働はしていないかもしれないが、自己資金を将来性があると思しきものに絶えず投資、運用し続けている。

 だから儲けられる訳だが、それらはサラリーと異なり安定しておらず、ゼロやマイナスとなるリスクが伴う。往々にしてリスクを排除するために、見えない所で泥臭い作業を淡々とやっているのが、お金持ちであり続ける人と、成金止まりな一発屋との決定的な差だと思う。

 人間ができている友人は、同世代でお金持ちに位置するであろう、私の表向きの資産を見て「良いなぁ」とは言いつつも、銘柄の分析と監視を絶えず行いながら相場に張っている、裏側の泥臭い一面を見て「自分にはできない」とも言う。

 少額の投資経験をもとに、投資一本で食っていく性質の難易・軽重をよく推し量って、リスクと労力を考えたら、地合いが良い時くらい、労働者よりも儲かって然るべきだと、妥当な判断に至っており、やはり妥当な批判をする上で、経験に勝るものはないのだとつくづく思う。


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