他者との差で気を病む必要はない。
人はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。
クリスマスの日の朝、東京と名古屋のでは鉄道で人身事故があったらしい。それ自体は珍しくもない世の中だが、時期と現場の状況から察するに、死人に口なしとはいえ、聖夜で色々あったのだろうと察してしまう。
ただ、養老孟司先生の言葉を借りると、恋愛は心の病気であり、男女で1年も一緒に居れば治るものなのだから、そんなんで死んじゃいけませんよ。と私も思ってしまう。
そもそも人生を大局的に踏まえると、何も持たない状態でひとりで生まれ、何も持てずにひとりで死んでいくのだから、ネガティブなイベントが発生したら、人生の第一章が終わり、第二章に突入した位の物語思考でいた方が、後々甘酸っぱい思い出だったり、笑い話としてその場を受け止められるだろう。
世の中は人間が動かしているのは事実だが、人ひとりが世の中に与えられる影響など、微々たるものであることもまた事実で、自己顕示欲の強い人であれば、生きた証を残したいと思うかも知れないが、多くの名もなきパンピーは何も残さず死に行き、時間経過とともに忘れ去れらる。
例えば義務教育で、金閣寺を建てたのは足利義満と教わるが、実際に建てたのは宮大工であり、宮田大工側の大多数の名前など、記念碑などに載っていない限り知る由もない。
それらを踏まえた上で、自分自身は人生で何を成し遂げたいのか。やなせたかしマーチ風に記せば、何のために生まれて、何をして生きるのか。を考えるのが「志」とやらではないだろうか。
それくらい人生を俯瞰して考えられれば、男女関係で拗らせて自決してしまうのは時期尚早であり、視野が狭いと感じてしまうが、恋は盲目の言葉にもあるように、人間の三大欲求の一つである性欲を煽られると、人を狂わすだけの魔力が潜んでいる意味で、やはり人類という種が存続するための根源的な欲求に違いないことを痛感する。
自分本位に生きた方が、最期に後悔しない。
さて、そんなことを思いながら、生まれてから死ぬまでを俯瞰して人生設計を考えるとする。きっと最初は順風満帆な人生を思い描くに違いないが、思い描いたような未来が到来することの方が珍しく、往々にしてどこかで路線変更を強いられる。
自身の病気や怪我、身内親族や友人との死別、配偶者との離別、仕事にまつわるあれこれ、お金の問題…長く生きれば生きるほど、ストレッサーとなる要素に出会す可能性は高く、そんな紆余曲折を経ては、人として成長していくのが人生の醍醐味でもある。
どうせ世の中に大した影響を与えられないであろう人生を、死ぬまで間の壮大な暇つぶしだと捉えれば、波風立てず平穏に生きるよりも、あれこれ悪あがきして自分本位に生きた方が、最期に悔いが残らないだろう。
人類史上、ヒトは誰かの世話にならなければ生きていけない意味で、社会性の生き物に他ならず、特に島国で移動技術が発達するまで、基本的に逃げ場などなかった日本では、村社会特有の同調圧力から、自分本位に生きられずに生涯を終える人があまりに多いと感じる。
自分のやり方で人生を楽しむ。
そもそも偶然の産物以上でも以下でもない、同級生とか、入社同期を大事にしなければならない的な固定観念からも伺えるが、他者との関係が永続する前提で他人を慮り過ぎて、自分を押し殺していないだろうか。
他人や雰囲気に合わせた受動的な生き方は、主体的な意思決定が必要なく、衝突も避けられるため短期的には楽に感じるのかも知れないが、そうして本来の自分像とは離れた虚像を形成しては、同じく虚像でしかない筈の他者と比較して落胆する上、その関係はいつか終わりを迎える。
特にICT技術が発達した今日では、SNSという見栄えの良い、キラキラしている眩しい情報ばかりが蔓延り、それを見始めるとデータアルゴリズムによって、無意識的にそればかりアクセスしてしまう状態に陥るが、本人はそれに気付けない滑稽な状態が、スマホの画面上の世界で創り込まれている。
他者と比較しない勇気。さらに掘り下げると、必要以上に他者と群れず、独りの状態でも楽しめる「ぼっち力」とでも表現すれば良いのだろうか。繋がろうと思えば簡単に繋がれる情報社会だからこそ、敢えて繋がろうとせず、我が道を行く強さを持つことが重要な時代だと感じる。
自分と他人にどこか似た要素があるから、相違点を見つけては比較したくなってしまうのであって、根本的に比べようがない領域に達してしまえば、他者との差で気を病むことはなくなる。そもそも、同じ人間である以上、能力の得手不得手はあっても、それが存在価値の高低には繋がらない筈である。
これは私のポジショントークなのかも知れないが、幼少期に美的センスが突出していたことから、都道府県レベルの児童美術展まで入賞した実績があったが故に、大人たちがその独創性が評価して、クセの強い性格を受容してくれていた側面は多少なりともあったのかも知れない。
結果として、集団生活でアイデンティティが殆ど矯正されることなく、仮にされたとしても反発していたため、ほぼほぼ原型に近い形で社会に出て、例に漏れず社会不適合者の仲間入りを果たした。
とはいえ大多数とは違う視点、考え方を持っていたからこそ、工業高校を卒業後に就いたのがブルーカラー、周辺的正社員と、お前が終わってんだよwwと馬鹿にされがちなスペックでありながら、20代のうちに老後資金不足問題を考えなくて良いレベルの資産形成と、固定費の引き締めにより、理論上は保有資産の運用益だけで質素倹約が前提の生活が営める今がある。
結局のところ、各々が自分のやり方で人生を楽しめれば、それで良いのである。今、思い詰めている方は、一度人生を章立てしてみて、辛い現状は次章を盛り上げるための伏線だと考えることで、違う糸口が見つけられるかも知れないから、騙されたと思って試してみて欲しい。騙されたとしても責任は負えないが。