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限界会社員。

変わらない日々、過ぎて行く人々。

 大学の単位認定試験を終え、久方振りの何をするのも自由な平日休みを謳歌できる日が到来した。

 そのため、休みであるのにも関わらず、テレ東BIZでモーサテの配信を視聴しながら朝食を済ませては、前場が動き出すまでの間、例の如く朝散歩に出て。地域の消費性向を掴むためのゴミ観察をする傍ら、死んだ魚の目をしたゾンビの如く、これから満員電車に揺られて、会社へと向かうであろう、社畜リーマン達を観察しながら、このまま自宅に帰れる優越感に浸っていた。

 勤労感謝の日にこんな不況時に勤労させて貰えるだけ感謝しろと、ブラック企業にありがちな謎理論を展開されていたのだから、平日休みでもなんらバチは当たらないはずである。

 仮にルーツは正しくても、「勤労させてやってる」のではなく、労使間で雇用契約を結んだ「対等な関係」なのだから、上から目線で来られる筋合いはない。

 そもそも論、組織の歯車以上でも以下でもない、現場の中間管理職でしかないおっさんが偉そうに「勤労させてやってる」と言ったところで、特大ブーメラン返しになっているだけなのだが、その皮肉に気付かない辺り、現業職員の程度が知れている。

 これ以上書き殴ったところで、労働はクソだ以上の感想は出て来ず、悪戯にブラックジョークのバリエーションを増やすだけだろうから、この辺りでピリオドを打つ。雇用契約のピリオドはもう少し先である。

 話を散歩に戻し、いつもの如く、ながら歩きをしながら信号無視をして山手線の駅に向かう下劣な大人どもを、律儀に信号を守る小学生と一緒に生温かい目で軽蔑しながら、脳内で「この人たちは、何が楽しくてこの日常を繰り返しているのだろうか」と言う哲学っぽい問いかけに自問自答していた。

賃金労働者を量産する学校教育。

 社会人とはいえ、変則泊まり勤務しか経験したことのないしがない鉄道員である。土日休みの日勤で働く人たちと同じ勤務サイクルではないため想像の域を出ないが、5日間憂鬱な日々を過ごし、束の間の休日にガス抜きをしようにも、都市部はどこの施設も混んでいて料金も割高。平日休みを知っている側からすれば、費用や労力に見合うだけの効果が得られているようには思えない。

 それでいてノーガードで徴収されている、税金や社会保険料には無頓着で、お金がないと嘆く。払ったところでシルバー民主主義故に、大半が高齢者の医療費と年金に消えていき、現役世代に支払った以上の恩恵はなく払い損なのは、世代会計を見ても明らかであるが、節税術を学ぼうとするのはごく少数である。

 少子高齢化の現状が変わらない限り、日本全体のパイが縮小するのは目に見えているのだから、今のまま関わらずに惰性で日常を過ごしたところで、徐々に没落してジリ貧となるのは想像に難くない。

 それにも関わらず、大学受験で良い大学を目指しては、就活を御社が第一志望ですと嘘をつきながら何社も受け、守られるかも定かでない雇用と、いつまでも上がらない賃金が約束された日系企業や公務員を志望しては、数年後に死んだ魚の目をするレールの上の人生を、多くの人が選択している。

 生活のためにはお金が必要で、お金を稼ぐには労働で人生を切り売りしなければならないのだから仕方がない。と割り切っている方が大半だろうが、この考え方そのものが賃金労働者の狭い視野で、学校教育の弊害だと感じてしまう。

生涯現役のレール上を走るか否か。

 確かに生活のためにお金は必要かも知れないが、生活様式を自給自足に近付ければ近付けるほど、十万円単位で必要であると言う常識は幻想であることに気付く。人口減少に悩まされている地方部なら、地域おこし協力隊などで、任期中は家賃を行政側が負担して貰える自治体も一定数存在する。

 どうせ休日の大半を家でYouTubeやAmazon Prime Video、Netflixを観ることに費やすのなら、わざわざ家賃の高い都市部に居住する必要がない。

 食費だって家庭菜園までやらなくても、自炊スキルさえ身に付ければ、外食はハレの日に行くか行かないか程度なもので、胃袋が食べ物を無限に受け付ける特異体質でもない限り大した額にはならない。

 ニーズ(必要経費)とウォンツ(欲求)を分けて考え、ニーズだけ満たすことを考えれば、人間が生きるために最低限必要な生活コストなど程度が知れている。執筆時点で私は東京23区在住だが、家賃込みで月6万円あれば、健康で文化的な最低限度の生活が営めると、試行錯誤の故に辿り着いたが、地方移住が現実味を帯びてきた今でも、削れる費用はないかと探す執念は健在である。

 あらゆるものが高い東京23区ですら、工夫することで年間100万円も使わずに生きていけるのである。足るを知り、労働はクソだと言う価値観を優先するならば、わざわざ正規雇用でフルタイムで勤め、心身をすり減らさずとも生きていけるのだから、労働で人生を切り売りする時間は半分以下で済むだろう。

 若しくは、私のように奨学金という名の借金を背負ってまで、教育コストを掛けずに高卒で社会に出て、まとまった額の金融資産を築き上げれば、自分ではなくお金が代わりに働いて、お金を持ってきてくれるようになる。

 悠々自適なリタイア生活を望まなければ、薄給ブラック企業勤めでも、生きるための労働からは解放される程度の資産を20代のうちに築ける可能性はある。サンプル数1で時の運もあるため再現性はないが、お金と知恵と筋肉は決して裏切らないから、やってみるだけの価値はある。

 同調圧力や世間体が蔓延っている日本社会において、レールから外れる人生は決して一筋縄には行かないだろうし、私のように高卒で入金力の源泉となる年収が低いと、その過程で色々とトレードオフとなるものも出てくる。

 それでも、限界集落のように徐々に没落していくのが明白な、限界会社員の横並びで何歳になるかも分からない定年に戦々恐々としながら、文字通り最期まで働き続ける可能性の高い人生よりは希望が持てると思う人は、型に嵌める学校教育に馴染めないような個性の持ち主ほど多いのではないだろうか。

 正解のない時代だからこそ、私が老後資金程度の資産で早期リタイアに踏み切ることで、個性溢れる方々に対して活路を見出せれば、同調圧力に屈せず我を貫いた甲斐があるというものである。


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