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雇用は名前を奪われる'e


ここで働かせてください

 千と千尋の神隠しを知らない日本人はあまり居ないだろう。2020年に鬼滅の刃が記録を更新する19年もの間、日本歴代復興収入1位の映画なだけあって、不朽の名作と呼ぶに相応しいスタジオジブリ作品である。

 作中では、オクサレ様が現代社会の河川への不法投棄による環境問題を表現していたり、湯婆婆の息子である坊が、子供のまま大きくなってしまった人に対する皮肉など、2001年の作品とは思えない位、現代の痛いところを突いている。

 その中でも取り分け印象的なのは、主人公である千尋が湯婆婆の元で働く「契約」を行い、名前を奪うシーンである。これは、雇用契約の下で働く限り、例え一個人の成果だとしても、世の中には会社の功績として知られ、個人の功績とはならない現代社会への暗喩となっている。

”会社における労働は、湯婆婆に名前を奪われるのに等しい(中略)どれほど自分が優れたプロダクトを生み出そうが、個人としての功績が積み上がっていく事は無い。これはポートフォリオマネジメントとしての時間の消失に他ならない。”

10年後の仕事図鑑|堀江 貴文 (著), 落合 陽一 (著)

 余談だが、本編では出て来ないが、推しである釜爺からの指示で、湯婆婆の奴隷にならないために本当の名前は隠して別の漢字を使えと、絵コンテ集に記載されていて、契約の際に本名の「荻野」とは異なる字を書いている。

 現代社会において偽名を使って労働できるのは、一般社会の枠組みから外れた仕事しか存在しない以上、安定を求めると成果を組織に横取りされてしまうジレンマが生じる。

 最近ではUberEatsや社内独立のような、企業と直接雇用契約を交わすのではなく、個人事業主として企業から案件を受注する形態が増えてきていて、個人が企業に手柄を横取りされにくい条件が整いつつある反面、企業が労働者を保障しない側面も併せていて、やはり一長一短ではある。

20%ルールは利益のため

 今を時めくGAFAの一角、Google(alphabet社)の20%ルールを聞いたことがある方も多いかも知れない。勤務時間の20%は自分の自由研究に使って良いとされている社内制度である。8時間勤務の会社であれば96分間は、お金を貰いながら自分の好きな研究をして良いとされる制度である。

 三井物産はGoogleに触発されて同じ20%ルールを採用、スリーエムでは15%、三島食品はB面活動と、業績の良い企業では似たような制度が導入されている印象がある。

 品川駅のコンコースに「今日の仕事は、楽しみですか。」と表示したら炎上する国民性である日本人からすれば、夢のような制度に思えるかも知れないが、アイディアというのはお風呂場や散歩などのリラックスしている瞬間に閃くものであって、精神をすり減らす勤務時間中に思い浮かぶ性質のものではない。

 つまり、意図的にリラックスする瞬間を勤務時間内に取り入れることで、イノベーションの材料を発掘しようとするのが真の狙いであり、福利厚生や労働環境改善とは意味合いが異なる。

 そうして閃いたアイディアが一発当たった場合、一番得をするのは企業であり、その利益は大体の場合、オーナーである株主に還元される。社内表彰くらいはあるかも知れないが、決してアイディアを閃いた個人の名前が後世に残ることはない意味で、雇用は名前を奪われる。これは超訳資本論で具体例が記されている。

”20%の自由研究を強要する理由は、Googleが優しいからではなく、自由時間に研究したことも会社のサービスにするためだ。

どうせプログラマーたちは業務時間以外にも、自分なりにいろいろな研究をする傾向があることを知っているGoogleは、それをも企業の剰余価値として吸収しただけのことである。

「Gmail」「Chrome」「Maps」「Android」「AdWords」などの、今のGoogleの革新となるサービスや資産の多くが、20%ルールの結果だ。

これは従業員のすべてを資本家のものにする、利口なポリシーだったのだ。

資本主義システム下で働くのは、自分の労働の結果が、他人の物となることを意味しているのだ。”

超訳資本論|許成準

社畜の人生は会社のもの、会社のものは株主のもの

 引用にもあるように、労働時間内に出した成果は、雇用契約を結ぶ以上、全て会社のものである。

 そんな恐ろしいものを、社会の右も左も分からない昨日まで学生だった青年に対して、僕と契約して、奴隷社畜になってよ!(CV:加藤英美里)とマスコットのような見た目の人事部に告げられ、雇用契約書を記入、捺印してしまう。

 その権利を勝ち取る就活も同じくらい狂気染みていると私は思うのだが、世間一般にはこれが伝わらない。

 気付いた頃には歯車でしかない労働者に染まり、起業して一発逆転をしようとも考えなくなり、周囲の労働者や日本経済と一緒に没落しながら死ぬまで一生働き続けるのである。自己破産や生活保護と言ったセーフティーネットを国が用意しているにも関わらず。

 日本人の9割は労働者で、私もかつてその一員だったし、起業する気も更々ない。だからと言って、一生労働者として、哀れな上司のように、過去の栄光に縋って、いつまでも椅子取りゲームの椅子にしがみ付くつもりもない。

 それは、株式会社の利益はオーナーである株主のものであり、所詮会社も資本主義社会の歯車でしかないからである。社員の前では偉そうにしている会社役員でさえ、オーナーである大株主の意向に逆らうような経営はできない。

 金持ち父さんのキャッシュフロークワドラントにあるように、お金を稼ぐ大枠は従業員、自営業者、ビジネスオーナー、投資家の4パターンがあり、資本主義社会において搾取されるのは従業員、搾取するのは投資家。自営業者とビジネスオーナーはその中間に位置する。

 今は名前を奪われる労働者だとしても、労働の成果として得た賃金を、株式に投資することで搾取される側から、搾取する側に、時間を要するものの成り上がれるのである。すぐに投資家に成りたければ、リスクを取って自営業者やビジネスオーナーとして財を築くしかない。あなたはどちらの道を選ぶ?

[増補]適材適所

 まるでお通夜だ。没個性的なリクルートスーツに身を纏う就活生の集団を見るたびに、そんな感想しか出てこない。

 オリジナルでも、雇用の権利を勝ち取る就活も(雇用契約と)同じくらい狂気染みていると記せるのは、私が現代社会ではマイノリティとされる、高卒採用の一人一社制と中途採用しか受けたことがなく、大卒の就活とやらを経験していないからだろう。

 そんな没個性的な状況を危惧した文科省が、教育で個性を尊重する的な方針に舵を切った印象があるが、一般論として、個性的な人ほど、会社のような組織に好まれない存在なのは事実であり、橘玲氏の幸福の資本論では、以下のように記されている。

”君が毎日会社で働くことができるのであれば、まず飛び抜けた個性は持ち合わせていないと思った方が良い。突出した個性のある人材なら入社もできないし、たとえ働きだしても長くは続かない”

幸福の「資本」論|橘玲

 学校教育が事実上の職業訓練校的位置付けを担うなら、これまで個性を要求されていたにも関わらず、18歳や22歳を境に真逆の没個性を要求されるみたいな状況に放り出すのは、ある意味で無責任ではないだろうか。

 これは、高校生まで化粧が禁止されていたのに、高卒で社会に出た途端、化粧は社会人としてのマナーだ。と、手のひら返しをされる女子生徒達に通じる理不尽さがある。

 そう考えると、私のように運よく面接の場で、人事担当者が仲間として一緒に働けると欺く形で内定したところで、そう長くは続かないか、そもそも個性全開で面接の場に行っても、後でアーメンされるオチが待っている以上、組織人として働く上では没個性が武器になる。

 「雇用は名前を奪われる」なんてことを逐一考えるようなクセ強人間は、そもそも組織人に向いていないのだから、そのクセを珍味や醗酵路線で突き詰める方が社会的な居場所が見つかりやすい。

 反対にそうした屁理屈を捏ねない没個性的な人ほど、組織人として生き残っていると考えれば、世の中、適材適所なのだとつくづく思う。



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