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視野の広さは経験値に比例する。

連鎖は続くよ、どこまでも。

 「ハビトゥス」と言う社会学の用語がある。仕草、身振り、手振り、口ぶり、上品さなど、社会によって染み付いた行動や思考の型で、第二の天性とも言われている。

 ハビトゥスの形成に大きな影響を与えるのが家庭環境と言われており、ピエール・ブルデューは、社会階級を再生産しているに過ぎないと主張している。反論もあるが、私は全く以て筋違いな主張だとは思わない。むしろ、一理あると思った。

 例えば、直系尊属で大学受験を経験した者も居なければ、親が高卒で社会から不遇な扱いを受けてきたが故に、ことあるごとに大卒の何が偉いと愚痴をこぼす。

 県外への家族旅行など片手で足りる程度で、ハレの日の外食といえばサ○ゼ、マ○ド、牛丼屋。週末の買い物と言えばド○キでいつも現金払い。

 一方で、親が学歴至上主義社会であることを理解して、幼少期から教育投資を惜しまず、良い成績、良い大学、良い会社のレールに乗れるような環境が整備できるようにできる限りのことをする。

 毎年、国内外問わず家族旅行を欠かさず、外食も物心ついた頃に、テーブルマナーやドレスコードが要求されるお店も経験させ、ファストな外食や買い物なら、株主優待券やクレジットカード、ポイント、クーポンなどを活用して、資本主義社会の仕組みを実感させる。

 誰かの実体験なのか、それとも比喩表現なのかはご想像にお任せするが、前者の環境で育つ子と、後者とでは社会に出た時点での、視野の広さが雲泥の差となるのは想像に難くないだろう。

 東大の子は東大なんてパワーワードがあるが、経済格差が教育格差に直結する前提が概ね正しければ、学歴至上主義社会故に、東大卒の親は高所得者である確率が高く、経済的なゆとりから子どもに教育投資できる額が多くなり、良い教育を受けた結果として、周囲が羨むような学歴となる可能性が高いことは、多くの方が指摘している。

 だからこそ社会階級の再生産、つまり上級国民や下級国民の連鎖は続くものという前提で、貧困側に位置する人がいかにして連鎖を断ち切れるかが、沈みゆく日本社会で生き抜くのに重要だと考える。

人は知らない世界をイメージできない。

 コロナ以前、私は隙あらば旅に出ていた。世界から見れば狭い島国とはいえ、まだまだ知らない世界があることを社会に出て痛感し、学生時代とは比較にならない経済力があるのだから、行ける時に行っておきたい心理の表れだろう。

 鉄道員という職業柄、複雑怪奇な旅客営業規則や運賃計算を研修中に叩き込まれるため、その知識を活かせば、国内旅行業務取扱管理者試験の3科目あるうちの実務はイケるだろうから、法令と約款さえ抑えれば、片手間で取れるのではと考えたものの、書店の対策問題集をめくると、法令や約款以上に、実務の観光資源がネックになると察して、負け戦はしないことにした。

 幼い頃から色んな場所に連れて行ってもらった経験がある人は、都道府県ごとの特色や行事などを自分の目で見てきたから、参考書に羅列されている観光資源も、想像しながら覚えることができるだろう。

 しかし私はそれらを見てもいなければ、予備知識もなく、無味乾燥な文字列に過ぎないことから、短時間で効率よく試験を突破するなら、学校教育のような丸暗記、詰め込みで乗り切る他なく、何だか悲しい気分になった。

 人は知らない世界をイメージすることはできない。今はインターネットによって調べればいくらでも、画面越しに絶景を見たり、臨場感のある動画で追体験することもできる。

 しかし、現代のデジタル機器経由で得られる情報は、視覚、聴覚にとどまり、触覚、味覚、嗅覚は現地に出向かなければ味わうことができない意味で、デジタルから得られる情報量は五感の4割に過ぎない。

悪足掻きしておくと、最期に後悔しない。

 だからこそ、何も知らずに社会に出て、タコツボという名の狭い世界に押し込められそうな状態から必死で抗っている、可哀想な自分を慰めるために、時間を見つけては日本の各地を巡っていたが、コロナ禍でその楽しみすら奪われて、ストレスを溜め続けた結果、徐々に具合が悪くなり始め、終いには倒れて入院、手術に至った。

 鉄道員(=”鉄ちゃん”)は夜勤や泊まり勤務かつ、ワンミスで人命を奪いかねない重責な職業柄、当事者は意識していないが、相当なプレッシャーを背負って働いている。

 それ故に”満”期(=定年)を迎えて、今までの精神的重圧から解放された反動に、身体がついてこれず”コロ”ッと逝ってしまう。そんな状態を昔の人は早死にと言わず、鉄ちゃん満コロと表現した。

 早死にすることを鑑みて、30歳で足を洗うつもりで鉄道員の地位に甘んじていたが、まさか20代半ばに死の恐怖を味わう事態など、想定も覚悟もしておらず、下級国民が連鎖に抗い、資本主義をハックしようと試みた代償としては、失ったものが大き過ぎた。

 後悔ばかりが募ったのは想像に難くないが、いくら悔やんでも健康を害した過去は変えられないのだから、いっそのこと、ある種の開き直りでレールから外れる道を歩む覚悟ができた。

 「アイディアは移動距離に比例する」は、グローバルノマドの先駆者である高城剛さんの言葉で、表題はオマージュである。

 これから社会の枠組みから外れた経験を積み重ねる分岐が、貧困の連鎖を断つターニングポイントとなるのか、はたまた無敵の人を量産するだけなのかは、実行してその時になるまで分からない。

 どうせ連鎖する運命なら、一回くらい悪あがきでもしておいた方が、例え結果は同じでも、最期に後悔せずに済むと考えるのは、私が一度死にかけた経験から来るものだろう。そうして繋がった生命で、これからどれだけ奇異な経験ができるかが、今は原動力になっている。


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