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保有している株、「いつ」売るのか?

売りは人生哲学に直結する。

 保有銘柄で結構な含み益が出ているのだけど、いつ売れば良いのか分からない。私が受ける投資の相談件数ランキングを作るとしたら、堂々の1位にノミネートするであろう内容だ。

 誰もが売り時は難しいと思うからこそ、投げかけられる質問である。売りも大雑把に、利益を確定する手仕舞い売りと、過剰なリスクを負わないための損切りとの、2種類に大別することができ、後者は経験則に基づくマイルールが形成されるだろうから、売りで悩むのは前者の利確に限定されるだろう。

 前者は本当に難しい問題で、何が問題を難しくしているかと言えば、未来が誰にも分からない以上、正解のない問いになるからだ。

 必ず問いと正答がセットで教えられてきた、日本の学校教育とは異なる思考プロセスであり、日本人はこの手の問いに向き合うことなく歳を重ねるため、いざ直面した時に戸惑ってしまうのも無理はない。

 ひとつ言えることは、その人の価値観や人生哲学に直結する部分であり、100人居れば100通りの売り方がある性質のもので、他人からとやかく言われる筋合いのない命題でもある。

 大阪のおばちゃん並みの厚かましさで、補助線という名のおせっかいをすると、投資によって資産を増やしたかった「目的」は何だったのかを、自問自答してみる。

 過去にお金を増やしたいと思ったのは、お金があることで人生における選択肢が増やせることを期待したからだろう。その手段のひとつが投資のはずだが、いつの間にか手段が目的化して、増やすことばかりに意識が向いてしまうと、売り時がわからなくなる。

 保有資産の種銭、いわゆる雪玉の芯は、過去にあなたが収入を増やすか、支出を減らすかで捻出したものである。将来のことを考えて、何かを我慢したこともあっただろう。その芯をどうにか転がして来たからこそ、今、徐々に大きくなっている。

 この調子で転がし続ければ、晩年には巨大な雪だるまとなり、勝手に転がり続けて、多くの雪(お金)が付いてくる。しかし、あの世にお金は持って行けない。

生涯保有はある種の”逃げ”。

 バフェットさんの運用期間は無期限からも伺えるように、数理的には一生涯、大袈裟に表現するなら末代まで保有し続けて、雪だるま式に増える複利の恩恵に預かるのがベストな選択ではある。

 とはいえ、せっかく若い頃に何かを我慢する形で出費を切り詰めて、ひと財産築いたのに、その恩恵を受けることなく生涯を終えては、自分が何のために生きて来たのか分からなくなってしまう。

 それに遺された親族が、お金の扱いに長けていないと、多額の相続財産を巡って争族になりかねない。

 良かれと思って遺した財産が、争いを生む元凶となるのであれば、最初から宵越しの銭など持たず、自分で稼いだ分は、自分のために使い切って過ごした方が、人生における満足度の総量は大きい。

 現世よりも末代の繁栄を望む、利他的な人でもなければ、基本的にはゼロで死ねるのが理想的だろう。しかし、人はいつか必ず死ぬものの、それがいつかを知ることはできない。

 つまり、私のイメージとしては、自分で稼いだ分くらいは、自分で使い切り、投資の運用益を多少は使うものの、全部は使いきれずに生涯を終える位が、納得感のある現実的な落とし所になるのではないかと考えている。

 このイメージを前提に売り時を考えると、お金が必要になった時は、含み益が減っていようが、この時のために過去の自分が種銭を工面しているのだから、迷わず売って現金化するべきだろう。

 それも想定外の大きな出費に限定しない。何気ない日常で金銭面を理由に心のブレーキが作動して、行動を躊躇うような時も同様に現金化する。

 ふと旅に出たくなった。気になる商品を見つけて、学者になった気分で事細かに下調べし始めて、何日も経過しているが、気になりすぎて夜も眠れないし、お店で見かけるたびに衝動に駆られる。

 例えが大袈裟かも知れないが、「迷う理由が値段なら買え、買う理由が値段なら買わない」の名言にもあるように、値段で躊躇するものは、本心でやりたいことなのだから、そこを抑圧して生活してしまうと、最期に使いきれなかったお金を見た時に、あれをやりたかった、これができたと後悔ばかりが積もる。

最期を考えるのに、早過ぎることはない。

 20代、30代のうちから、半世紀以上先に訪れるであろう、死に際まで考える私を、周囲は死に急いでいるかのように捉えられるが、人は生まれて来た以上、必ず死ぬのだから、最期を考えるのがいつであっても、早過ぎることはない。

 そこまで真剣なのは、20代半ばで大病を患い、死の恐怖をまざまざと感じた影響だろう。

 原因不明の発作で倒れ、これまで平穏に過ごしてきた日常が一瞬で崩れ去り、緊急入院で原因を突き止めるまでの1週間、癌まで疑われたことから、フランスベッドの上で様々な考えが脳裏に浮かんだ。

 もしこのまま病院の外に出ることなく生涯が終わるなら、節約人生そのものだと、健康体を失った自分の現状を、シニカルに客観視していた。

 それと同時に、生活支出を徹底的に引き締める、典型的な「となりの億万長者」スタイルで得た、投資収益の恩恵を受けずに最後を迎えるくらいなら、生計が立てられる程度のユルさで、重責なフルタイムではなく、フリーターとしてお金がないなりに呑気に生きたかったと後悔した。これが本音である。

 壊れた身体が手術によってそっくり元通りとはいかないものの、日常生活に耐えられる程度に回復し、副産物的なスクラップ&ビルドで、人生2周目として再建する機会が生まれ、本心に従ってリタイアした次第である。

 内臓を失っている手前、恐らく平均寿命まで全うできる確率が低い。だからこそ、かつて収入の3割で暮らし、2割が税金と社会保険料で召し上げられ、5割を投資の種銭としていた、昔の自分を慰めるために、今、無理に労働する必要のない日常を謳歌している。


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