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人である以上、いつかは引退する。

不純な動機で夏目漱石作品を読んだ過去。

 私の中学では朝礼前の数分間、読書をする謎の時間が存在して私は夏目漱石のメジャーな作品を一通り読んだ過去があり、高校の教科書で偶然にも坊ちゃんが題材として扱われた国語の期末試験では、理系頭であるにも関わらず満点を取る快挙を成し遂げた程度には、造詣の深さは持ち合わせていると思われる。

 しかし、夏目漱石作品との出会いは不純そのもので、当時は勉強なんて将来なんの役に立つのかも曖昧で、受験を有利に進める以外の目的も不明瞭だったことから大嫌いであった。

 そのため、本から得られる知識は優良であり、誰にも奪われる心配がなく、生きている限り何度でも繰り返し使用することができる、最も手軽でコスパの良い自己投資だとも気付いていなかった背景から、全ての文学作品において興味を示さなかった。

 とはいえ、多感な時期の田舎あるあるで、サブカルチャーに対する偏見の強さから、ライトノベルをブックカバーでカモフラージュして読むほどの度胸も持ち合わせていなかったことから、小学生の頃に最も使用頻度の高い紙幣である千円札の肖像である夏目漱石の本を仕方なしに手に取った。

 今思えば、恐らく心理学で言うところの単純接触効果に近く、お札の肖像に選ばれる偉人が書いた本を読めば、お金に結びつく何かが得られるのではないと言う根拠のない期待感から、古本屋で夏目漱石一枚位の金額分を買い、3年間ひたすら読み進めていた記憶がある。そう言う意味では一番使う紙幣が福沢諭吉だったら、社会人になる前に簿記を学んだかも知れない…。

夏目漱石が憧れた高等遊民。

 漱石さん自身が病弱で引きこもりの社会不適合者でありながら(うつ病や統合失調症を患っていたのではないかと言う見解もある)、近代人のエゴに苦悩しながらも執筆し続けたストレスから最期は胃潰瘍で倒れた人物なだけあって、定職に就かずにのらりくらりと生きられるだけの経済力を持ち合わせている「高等遊民」への憧れが著作の随所に感じられる。

 当時は大して理解できずになんとなくで読んでいた気がするが、分からないものに対して抽象思考を用いて、分からないなりに解ろうとする哲学的思想が鍛えられたことにより、解釈の余地が残されている作品を好む傾向から、庵野秀明監督作品であるエヴァンゲリオンに陶酔したり、現代社会でも労働を美徳と捉え、無職を軽蔑するようなプロテスタント的思想を疑問視して、早期リタイアに強い憧れを抱いているなど、最近になってオーディオブックで著作を聴き返してみると、人格の形成に多大な影響を受けていたと思い知らされる。

 高等遊民の概念は「それから」や「こゝろ」で登場する他、印象的だったのは警察官が宿屋に巡回して、「今日の宿泊客は無職が多いから平和だ。」と言うニュアンスの表現があったことである。全集の音声を睡眠用BGMのように聴いて得た知識のため、作品名や字面を覚えていない…。

 中学時代は意味不明だったためか記憶に残っていなかったが、近代で定職に就かずとも生活できる身分と言うのは地主や大家と言った資本家のみに与えられた特権であり、現代の社会保障にぶら下がっているだけの無職とは一線を画す存在だったのである。だからこそ、一般にイメージされる無職と、資産で食べていけるが故にあえて定職に就かない人を同じ括りにしている現代に違和感を感じるのである。

 今思えば、お金持ちの思考が肌感覚で理解できる程度に、自分独自のお金感が形成できて、20代の上位数%に位置する金融資産を保有・運用するまでに至ったのも、幼少期からお金への関心が高く、両親が大して金融リテラシーを持ち合わせておらず、私が質問しても期待するような回答が得られなかった景観から、お金について自分なりに考え抜いた賜物だと振り返る。

 キャッシュレス推進、現金否定派の私が幼少期に使用していた現金の肖像に使用された人に影響を受けているのは皮肉が効いている。そしてスラムダンクの安西先生を見る度に五千円札の新渡戸稲造を思い出すマネーマニアは決して私だけではないはず…

受動的な終わりか、主体的な終わりか。

 ここまで長々と早期リタイアを正当化するためにお膳立て屁理屈を捏ねてきたわけだが、そうは言っても日本人の半数を占める50歳以上の大衆から見れば、若いのに働かないのは怪しからぬと、マスメディアによるステレオタイプ化が著しい印象があるが、これ自体も老害に対するステレオタイプになってしまい、自分の首を絞めるので今回はこのくらいで留めておく。

 早期リタイアの概念自体が比較的新しい性質のものではないのは夏目漱石の著作からも明らかだが、以前は高等遊民の存在自体が限られた一部の資本家階級に与えられた特権であり、労働者には絵空事同然であった。

 それが金融の自由化やIT化によって我々労働者であっても資本家しか知り得なかった情報にアクセスできるようになったことで、株式などの伝統的な金融資産を持つことにより、労働者でも資本家を目指せる環境が整い、現実味を帯びて来たところで、昨今の異次元金融緩和が到来。

 愚直に賃金を金融資産に変換していた先駆者の方々が、実体経済に伴わない金融市場だけの好景気が発生したことにより保有資産が膨らみ、人生アガり状態となったことで早期リタイアに踏み切り、メディアが取り上げることにより大衆に認知されるようになっただけのことだと思われる。

 金融資産からの不労所得だけで会社に縛られず自由に生きること自体、大衆の価値観になかった新しい概念であるが故に、労働を美徳としている高齢者を中心に拒絶反応のような反論が出て来ているのが現状であるが、私見では労働者人生に主体的にピリオドを打つか、年金財政が悪化する度に引き伸ばされる定年という枠組みによって、受動的にピリオドを打つのかの違いでしかない。

 労働者である以上、遅かれ早かれいつか終わりを迎えるのは明白であり、早期リタイアは年金をあてにせずとも、資産の配当や運用益、取り崩しによって100年時代を生きて行けるだけの蓄えと覚悟を持った人が、定年よりも早くに労働者を引退したに過ぎない。

 国税職員あるあるらしいが、個人事業主や経営者、個人投資家であれば生涯現役を貫くことが可能であるため、老後資金を備えたところで取り崩さず、億単位の財産を遺して相続税が発生するケースが多いらしいが、労働者である会社員や公務員では定年で労働収入が基本的にゼロになるため、資産を愚直に取り崩すしかなく、相続税が発生するのはレアケースらしいことから、早期リタイアを目指す反面、資産形成よりも個人で稼ぐ能力が何よりの老後資金対策であることに異論はない。

 だからと言ってキヤノンのように、会社の寿命が先か、社長の寿命が先かのチキンレースを行う人生も、外野から見ている分にはネタとして面白いが、取り巻きはヒヤヒヤものだろうから、やはり引き際は重要である。

定年退職について。

 我々Z世代が物心着く前、定年は55歳だったらしい。それが年金や社会保障の財政が逼迫したことで60歳、65歳と引き伸ばされ今に至る。時期に65歳定年制が義務化され、55歳で希望退職を行い割増の退職金を受け取った場合、一般にはれっきとした早期リタイアになるが、年齢だけ見れば90年代後半までの定年をしているに過ぎず、長寿化を素直に喜ぶべきなのかは正直複雑である。

 団塊世代が後期高齢者になる前に、一定所得者の医療費が2割に引き上げられたように、我々20代は人口動態から、何歳になっても生産年齢人口の中のボリュームゾーンとなることが予測されているため、定年などの社会的な節目を迎える前に年金や社会保障のテコ入れが行われる可能性が高い。

 これは団塊ジュニア世代にも言えることで、余命を考えると団塊ジュニア世代の定年が70歳、今の20代の定年が75歳と引き上げられていても何ら不思議ではない。

 2000年生まれの人の2人に1人が100歳まで生きるなんて試算がある位だから、75歳で定年しても半数は平均で四半世紀の老後期間があるわけで、年金や医療費の逼迫具合を鑑みると一見すると悲観論に見えて、結構妥当な線だと個人的に思っている。

 そうして今でさえ嫌々働いているのに、それが半世紀以上続いた上、退職金や年金もアテにできない中で、老後資金を蓄えようと必死で生きて定年を迎えたら健康寿命終了間際で、心身ともにボロボロで大した金銭消費も行えず、最期を迎えるのである。

 これではゾンビ化する日本社会の依り代として生まれたに等しく、五公五民で高齢者に散々虐げられた若者の末路だと考えるとゾッとしてしまう。そうならないためにもピケティさんが証明したr>gに倣い、早期に有利な資本家側に転身するのは最適解の一つなのかもしれない。


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