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8時間労働が苦痛な感覚こそ正常な証'e


ワークライフバランスが取れない賃金労働者

 昨年、どこかのインフルエンサーが、大学を出た後に就職して、毎日8時間、職場の一室に籠り、それから解放される頃には辺りが真っ暗な9時〜17時の勤務を経験した混乱が波紋を呼んだ。

 根底にあるのは、ワークライフバランスが取れないことに対しての混乱な筈だが、なぜかリプライ(反論)には根性論や苦労自慢が蔓延っており、そういう人種の声ばかりが大きいから、安くこき使いたい経営者と思惑が一致して、ブラック労働を助長しているのではないかと思う節がある。

 そもそも、我々は義務教育で労働基準法について学び、1週間の労働時間は40時間を上限としていると教わる。月曜日から金曜日までの週5日勤務であれば、$${\frac{40}{5}}$$=8時間といった具合だが、この8時間という数字は、昔からの慣習であって、科学的根拠に基づいたベストな数値とは思えない。

 恐らくは、1日24時間のうち、$${\frac{1}{3}}$$は睡眠に使い、$${\frac{1}{3}}$$は労働、残りの$${\frac{1}{3}}$$で生活をすればバランスが良い的な考えから定着したものと思われる。

 しかし、何を「労働時間」とするのか、会社によって曖昧だったりする。例えば制服の着用を支持されている会社でも、着替えの時間が労働時間に含まれていないことは往々にしてあるが、会社の指示で着替えさせているのだから、本来は労働時間として計上されるのがあるべき姿で、細かく見てみると、そうした対価の出ない業務指示は結構ある。

 通勤時間も同様で、会社が勤務場所を指定しているのだから、交通費だけ出してヨロシクではなく、指示した場所に行くまでも、本来は労働と捉えるべきではないかと思う。そうかと思えば、出張は移動時間も労働時間として組み込まれるダブルスタンダード。

 また、一般的に休憩時間は含まれず、実働の8時間+お昼休みの1時間で拘束時間が9時間というケースが多いが、職場で過ごす1時間と、自宅で過ごす1時間は性質が異なるのに賃金が発生しないのも、おかしな話だと思う。

 極端な話、バスの運転手さんは朝夕のラッシュに対応するために、7時〜11時勤務。お昼休みが4時間。15時〜19時勤務といった、半日以上職場に拘束される実働8時間の中休勤務が存在するが、この4時間は休憩扱いでお金にならないことが多い。

 こうした、労働の都合で削られている時間は多く、キッチリ1日の$${\frac{1}{3}}$$だけを労働に費やせている人はまず居ないどころか、36協定という月75時間までの残業を認めるルールがあることから、人によっては1日の$${\frac{1}{2}}$$以上を労働のために費やしている。これでワークライフバランスが取れるわけがない。

仕事のために生きるべからず

 我々が生活する貨幣経済が発達して、高度に分業された文明社会で生きていくために必要となるのがお金である。

 多くのパンピーは、突出した才能がある訳でもなければ、実家が太い訳でもないため、お金を得るためには時間と労働力を切り売りすることで、対価として賃金が得られる。だから周囲の大人の多くが賃金労働を行っている。

 子どもながらに「何のために働くのか」と聞けば、「生きるため」と答える大人が多いが、日本社会では、本当の意味で「生きるための仕事」と割り切れている人は少ないように思う。

 というのも、冒頭で触れたインフルエンサーの投稿にもあったように、毎日8時間、職場の一室に籠り、それから解放される頃には辺りが真っ暗。疲労困憊では、何かをする時間なんて持てやしない。

 そうなると必然的に、職場環境がアイデンティティの形成に大きく影響することを意味する。社会に出てから築いた人間関係や趣味で、仕事が絡まないものがどれほどあるだろうか。そう多くはない筈である。

 できるビジパほど、生活リズムも仕事で最大限のパフォーマンスを発揮する前提で、退勤後や休日にも関わらず、コンディションを整える方向に意識が向いてしまう。

 これではライフがワークに支配されていて、「生きるための仕事」ではなく「仕事のために生きる」状態と表現した方が適切ではないだろうか。

何のために生まれて、何をして生きるのか?

 仕事のために生きる成れの果てが、労働そのものに価値を見出すプロテスタント的思想が蔓延る仕事人間もとい社畜化し、人間関係や社会とのつながりの大部分を職場に集約して、定年退職と同時に全てを失う。

 人生100年時代なんて言われているが、ここ最近、心なしか60代の著名人の訃報が多いと感じる。

 現状では定年が60歳、再雇用で65歳がデフォルトだが、今の20代からすれば、年金や社会保障制度の構造上、定年延長はほぼ確実で70〜75歳がデフォルトでも不思議ではない。

 後期高齢者近くまで仕事一辺倒で、定年を迎えて数年で人生が終わる可能性を考えると、何のために生まれて、何をして生きたのか、やせたかなしい姿で最期の最期に後悔する気がしてならない。

 だからこそ、8時間労働が苦痛という正常な感覚を大事にして、決して苦痛のあまり感覚が麻痺して、根性論や苦労自慢を垂れ流す側にならない強い意志を持つ。

 そして、仕事のために生きるのではなく、生きるための仕事に徹して、効率よく早期リタイアするために、あれやこれやと画策するのが健全ではないだろうか。最期に余計なひと言を記すなら、主に労働はクソである。

[増補]サラリーマンはある種、カルト集団

 コロナ禍に散々人件費をカットしておきながら、5類以降で経済活動が平常運行となった今になって、一部の業種で絶望的な労働力不足に悩まされており、昨今の物価高も相まって、人口動態を見ても希少な若手人材を企業が取り合う構図となった結果、賃上げの話題に事欠かない。

 しかし、以前から記しているように、恩恵を受けられるのはあくまでも正規雇用に限定された話だ。

 就活する際、偶然にも不況の煽りを受けて新卒採用が抑制された世代は、新卒時に安定した雇用環境から抜け漏れただけで、今度は新卒一括採用や年功序列が排除の仕組みとして働き、壮年になっても上記の恩恵を受けられない。

 煎じ詰めると、就活時に景気が悪いことで、不運にもキャリア形成の初期段階に躓くと、その後に挽回するのが無理ゲー化するグロテスクな構造となっているのがこの社会の現実だ。

 解雇規制が厳しい正規雇用という名の労働者の特権階級は、安定雇用とネームバリューをダシに人を寄せ集め、いつの間にか従事者の思考や行動を組織の利益のために、「生きるための仕事」から「仕事のために生きる」社畜にすり替える。

 退職という名の枠から外れた”裏切り者”は、二度と組織には戻れない意味で、よそ者に排他的な閉塞された環境。プライベートも社内行事など、身内同士でしか交流させず、一般社会から孤立させる。これはもはや、ある種のカルト集団だろう。

 そうして壮年になる頃には、死んだ魚の目をして”他に行くアテもない”、やれ”住宅ローンが残っている”、”子どもが自立していない”と定年まで飼い殺しにされ、定年退職とともに破門されると、組織内でしか使えない人的資本と社会資本の全てを失う。

 退職金を嗅ぎつけた金融機関からは、金融機関が儲けるための金融商品を買わされては金融資本も毀損し、無気力状態でボケ一直線コースか、老後破産しないために、死ぬまでブルシット・ジョブコースの2択となり、自分の人生を歩むことなく生涯を終える。

 巧妙なマインドコントロールで洗脳し、社畜化する”企業”という名のカルト集団から、ドロップアウトとはいえ抜け出したことで、この社会の歪さを感じられるようになった。

 だからこそ、”まだ俺が本気を出す時じゃない”と、今日も働かないアリさながらの状態で、コロニーの余力として労働力を温存していると、自身を正当化しながらフリーライドを謳歌する。


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