大晦日に聴いた「うちで踊ろう」は何だったのか
コロナで散々だった2020の大晦日、疲れ果てた人々の心にそっと触れてくるような言葉が、テレビから聴こえてきた。
星野源の、大晦日版「うちで踊ろう」の歌詞だ。
(つい先日、NHKから動画がアップされた↓)
「うちで踊ろう」は元々、1回目の緊急事態宣言が発令された頃に発信されたものだった。SNS上で公開されてから瞬く間にアレンジ動画が広がり、未曾有の出来事を経験しながらもまさに音楽で「重なり合う」体験を、我々は体感していたのだった。
1番を作詞してからおよそ8ヶ月。社会はあれから状況を刻々と変化し、目に見えないウイルスは人間の醜さと社会の粗(あら)をことごとく露呈していった。1番の歌詞を作った時とはまた異なる現実を抱えながら、本人は2番の歌詞にどのようなメッセージを吹き込んだのか。
繰り返し聞こえてきたたのは、「ひとり」というキーワードだった。
この2番の、ちょっぴりシリアスだが尚やさしく諭されているような歌詞。この言葉に関する数々のレビューが個人的にはとても興味深かったので、自己満足のままにかき集めてみることにする。
①「綺麗事」の先にあるべき、アーティストの主張
こうした災厄において、エンタメはここぞとばかりに大衆迎合に陥る可能性がある。そんな指摘にハッとしたレビュー。すぐには収束しないこの長い状況下で、エンタメはどう形を変えて人々を勇気付けていけるのか。延々と短絡的なあっぱれ・ガンバレを続け、消費されていくままで良いのか。
いいはずがない。
星野源が託した「ひとり」という言葉にはたしかに、微かなカウンターの意図があったのかもしれない。
このステージで彼は、既に「時代の唄」となっている"うちで踊ろう"を、そのままに歌うこともできただろうし、むしろ、紅白という番組の特性を踏まえれば、そうした最大公約数的なるパフォーマンスを求められていたはずだ。しかし彼は、どうしても《ひとり》であることを歌わなければならなかったのだと思う。
巷には、「音楽で心を一つに」「音楽で繋がろう」というメッセージが溢れていて、もちろん、そうしたメッセージ自体には、決して悪気や悪意はないはずだ。しかし、私たちが思考を止めて、漂白された「綺麗事」だけが一人歩きしてしまう時、あまりにも大切な本質が擦り落ちてしまう。それは、アーティストにとって不本意なことであるだけでなく、とても危険なことだと思う。だから僕は、あの紅白のステージで、《ひとり》であることを繰り返して歌ってくれた星野源を、絶対的に信頼している。
②星野源は人を諦めている
新春の逃げ恥の平匡さんが頭によぎる、「人への失望・諦め」のスタイルを汲み取っているレビュー。
平匡さんはドラマの中で、荒れたネットの書き込みを見ながら「こんなにも人は愚かになれるのか...」「いつ戦争が起きてもおかしくない」といった愚痴をこぼす。
常に嘲り合うよな 僕ら
"それが人"でも うんざりださよなら
変わろう一緒に
この歌詞からはコロナ前や後に関係なく、SNS上で常に見知らぬ人と喧嘩し続ける人々への諦めのようなものが感じられる。
朝ドラ主題歌でお馴染みの「アイデア」でも2番にはシリアスな歌詞が入ってくるなど、星野源の歌詞は決してすべて「陽」であるわけではないが、「うちで踊ろう」では上記以降も「人間は所詮一人」といった諦めの感情が伝わってくる。
③それでもやっぱりホープ、星野源
「希望」、おそらくこの楽曲を聴いた多くの人が彼に抱いたであろう感情。
先見の明か、それとも偶然か。いずれにせよ2回目の緊急事態宣言直前という絶妙なタイミングもまた、この曲に耳を傾けさせるスパイスとなったに違いない。
④新春に放送された逃げ恥と重ねて。
ひとつにはなれない「ひとり同士」が「対話」することへの可能性。
思えばみくりさんと平匡さんも、両者は全くタイプが異なる、物理的にも心理的にも「ひとり」の人間だった。
この楽曲が逃げ恥とセットになって我々に届く結果、星野源が込めた「ひとり」と言う言葉は「ひとつになるのではなく、ひとりの人間がもうひとりの人間と対話すること」への可能性さえも示唆しているのかもしれない。
対話とは「意味」の交換だ。仕事や子育てを互いがどう意味づけし、それに合った選択を行っていくのか。僕らはどんなに近しい存在でも、たとえ夫婦であっても親子であっても、違う人間である以上、相手との間に根気強く意味の橋を架け続けなければならない。みくりと平匡は橋を架けることに互いが誠実だった。だから感動があったのかもしれない。
紅白で源さんが歌った『うちで踊ろう(大晦日)』で付け足された歌詞、
<僕らずっと独りだと 諦めて進もう>
も、(略)単なる投げやりな諦念ではなくて、対話への希望なのかもしれない。テクノロジーの発展も相俟って、僕らは自分と同じような価値観の人ばかりで世界ができていると錯覚するようになっているけれど、他人が他人である以上、本質的には<ずっと独り>だ。でもだからこそ、ひとつになる(同調する)のではなくて、一人ひとり違うことを受け入れて<重なり合う>(対話する)ことが大切なのではないだろうか。その違いにこそ、希望があるんじゃないか。みくりと平匡が子育てに奮闘する姿を観て、そんなことを思った。
⑤「国民的歌手」なるポジションを背負い、歌ってくれること、それを享受する受け手としての感情
これもまた、愚かな人間の存在を嘆く、新春の逃げ恥の平匡さん彷彿とさせるレビュー。
荒んだ社会に呆れているのがいち一般人の平匡さんだとすれば、ドラマの外で歌をうたう星野源は、そこから私たちを引き上げようとする正真正銘のアーティストだろう。だんだん平匡さんのキャラが星野源の第3人格ぐらいに思えてくる。
私は、星野源が、この馬鹿な国のために、いつまでも愚かな人々のために、それでも歌い続けてくれていることに、喜びよりも先に申し訳ないような苦しさを感じてしまったのだ。
*
多くの人が指摘している星野源の「ひとり」観については、昨年の4月に、すでにRolling Stone japanで本人の口から語られていた。
この頃から、いや、星野源のバックグラウンドを通して一貫した「人間はひとり」という価値観が守られていることが分かる。
僕は、昔から「みんなでひとつになろう」的な言い方が好きじゃないんです。人と人はひとつにはなれない。死ぬまで1人だと思う。でも、手を取り合ったり、想いを重ね合うことはできる。そこに一つの大事なものが生まれるんだと思うんです。
さらに、「踊る」や「うち」という言葉の選択についてインタビューではこう語っていた。
僕は「踊る」という言葉は「生きる」というのと同義だと思っています。「うちで踊ろう」というのは、心が躍るという意味でもある。「おうちで踊ろう」ではなく「うちで踊ろう」なのは、家にいたほうがいいと思ってる人は「うち=家」として解釈できて、外に出なきゃいけない人はその場所の「内側」や「心の内」の「うち」という解釈ができるから。
ステイホームの発信に、最大限の配慮が払われていた時期であることがうかがえる。この頃、「踊る」ことを「生きる」ことと同義と捉えていた星野源は、8ヶ月後の大晦日でもまた、生きるように心のうちで踊るよう、私たちにささやく。
あなたの胸のうちで踊ろう
ひとりで踊ろう
(略)
生きて踊ろう
だがあれから数ヶ月が経ち、新作の2番で彼がしきりに「ひとり」を強調した上で「踊ろう」と口にする時の言葉の意味は、私には若干違って聴こえてきた。
私には、「ベクトルを、外でなく内に向けよ」というメッセージに聞こえてくるのだ。
瞳を閉じて、耳を塞いで、人を嘲る代わりに部屋でせっせと家事をして、ご飯を食べて、そうやって生きていこうよ、それしかないよ、という諦めの諭し。
確かにこの曲は聞くひとの心をそっと撫でてくれる優しさを持ち合わせているとは思う。でも時折刺してくるような言葉が、1番の歌詞を作ってから数ヶ月の間に様々なことを感じた彼からの冷たい戒めのような主張にも、とれなくもないように思うのだ。
そして、この曲が、新春に放送された逃げ恥とシンクロするかのように「重なりあう」ことは私にとって偶然の一致ではないようにも思う。
社会の課題を総ざらいしたあの大衆ドラマと、星野源から急に「常に嘲り合うよな、僕ら」と囁かれる「うちで踊ろう」という<国民的>ポップスの双方により、私たちは2021年のはじまりをまず、現実と向き合うことから始めさせられている気がする。
大衆コンテンツと言われるものだからこそ、たくさんの人が、無自覚のまま巨大な渦に放り込まれている気がする。その渦に気づけているか。変革の意識形成、自らの弱さや脆さを突きつけてきている渦に。その渦が大衆コンテンツの形を帯びなくとも、社会にはじっさい課題が山積みだ。直視するにはとても苦しく、ただでさえ自分のことで精一杯な毎日だけれど、それでも生きていかなければいけないのだ。それでも生きようよ、という星野源のしなやかなメッセージがこの曲から伝わってくる気がした。
ノリの良い星野源のポップスに載せられて届く言葉はたしかに甘く、情緒的だ。でも、私たちは受け手として、そこで止まって感傷に浸っている場合でもない気がしている。時にこうした鋭いコンテンツを食らってたるまないよう尻尾を叩かれながらベクトルを「うち」に向け、おそらく苦しいであろう2021も歯を食いしばって耐えてゆくしかない。曲中ではそれがコロナ2年目の私たちにとっての宿命である、と訴えてくるようにも思えた。
・・・・という自分の感想も書いてみたが、一晩経ってNHKがアップした大晦日の紅白をもう一度聴いてみると、「ベクトルを、外でなく内に向けよ」なんてシリアスすぎる意図はさすがに込められてないような気もしてくる。私の考えすぎかもしれない。考えすぎて、星野源に期待しすぎてしまっているのかもしれない。単純に、私たちの荒んだ心にそっと寄り添うような音楽を作ってくれた、という話なのかもしれない。
でも、あのときテレビから聞こえてきた星野源の音楽は、確実に、見ている者の心の何かを掴み、かっさらい、そしてやさしく包み込んでくれたような気がするのだ。
あれは一体なんだったんだろう。
ネットのレビューを掻き集めてモゴモゴと考えれば分かるかもしれないと思い、書き始めたのがこのnoteなのだが、結局わからないまま筆を置くことになりそうだ。
寝ても覚めても、今はよくわからない。
*
ひとつ言えるのは、とんでもない1年の終わりに、このような素晴らしい音楽を聴けたことを私はとても嬉しく思っている、ということだ。もはや感謝の気持ちに近い。
くるりの岸田さん曰く、音楽評論の基本は
①リラックスして何も考えず聴く
②全ての音や構成などを注意して聴く
③作者の意図を出来るだけ読み取るために②を繰り返す
④色々あんねんなぁこの人も、と作者や演者を心の中で労る
⑤①に戻る
というのが良いらしい。というわけで、しばらくは私も一旦何も考えずに「うちで踊ろう」を聴いていこうと思う。ここまで散々かき回しておいて最後は他人の言葉で締めくくるとは、逃げだと言われても仕方がないが。(星野源に絡めていうと、実際逃げは「役に立つ」)
最後に、余裕が無くなった時に読み返したい星野源の言葉をひとつ。
自分が好きなことや楽しいことを奪われると、人は生きていけないと思うんですよ。
なぜなら、人間は余計なことをするために生まれてきたから……というより、余計なことをしちゃう生き物なので。
それは想像力があるからですよね。余計なことを考えるようにできてる。昔からずっとそういう種族だったわけで。
だから、衣食住以外の余計なことを人間から奪うと、そもそも人間は人間でいられなくなる。娯楽だけじゃなくても、自分が好きだと思うものとか、なんか楽しいと思うものとか、絶対に大事だと思っています。
星野源を心で鳴らしながら狂ったように踊り、足りない愛を掻き集めながら一生けんめい、今日もひとりで一歩ずつ歩いて行こう。
それしか、私たちにできることはないのだ。