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切り干し大根のような日々

引越し費用を貯めるべく、美術モデルの空いた時間にタイミーで働いている。

スーパーの品出しや街中でのアンケート調査、個人宅に投函する企業からの広告チラシの仕分け、冷凍食品の倉庫でのピッキングなど、まだインストールして1ヶ月にも関わらず随分と色々な仕事をしてきた。飽き性な私にはかなり助かる。

スキマバイトと言えば聞こえは良いが、まぁ言ってみれば「日雇い労働者」である。行く先々で無碍に扱われたり、差別を受けたりするのかな、などと思って行ったが、そんなことはなかった。1日数時間でもいいから来てくれ、と求人を出しているところは人手が足りないところなので、たいてい優しく丁寧に接してくれる。

学生の頃からPCさえあればどこでもできるような、いわゆるデスクワーカーとして働いてきた。こうした生活に直結するような仕事をするのは初めてのことで、痺れる日々だ。

タイミーではタイピングの速さや会議での理路整然としたプレゼン能力、飲み会で好ましい後輩になるためのスキルは全く必要ない。今こうしてPCの画面の中でシコシコひとりで文章を書いているよりも、よほど社会と直結しているように感じる。

飲食街にあるスーパーの早朝6時半から、ひたすらにレタスの葉がダメになったところをちぎって捨てる緊張の仕事。お客がちゃんと品物を見ている証拠だ。
某有名チェーン店に送るため、寒い倉庫でそれぞれの店が注文した冷凍食品をピッキングし、手で箱に入れていく仕事。

普段私たちが目にするあの形をつくるために、誰がどこでどんな準備をしているのか。仕入れ先からどんな状態できて、どこからを裏で調理するのか、実際に働いてみないとわからない。ふだん我々が店に入って当たり前のように欲しい商品を購入できるのも、そこにものを運び、加工し、効率よく美しく表に出してくれる人がいてこそだ。そんな当たり前のことを、私はこの年になるまでリアルに想像できなかった。

そしてそういった場所にも必ず、その仕事が好きで仕方がないという人がいる。お金のためにという現実的な理由のほかに、そこで働きたくて働いている人がいる。
普通のパートやアルバイトであっても、そういうプロ意識を持った人の鋭い勘、読み、技量は、目がさめるほど美しい。お金にはまったく上乗せされない、完全なる善意なのだが、それが見えない場所でどれほど社会の潤滑油になっていることか。どれほど関わる人の気持ちを穏やかにしてくれるものか。感謝と尊敬の念を隠せない。

彼らの姿を見ていると、やはり仕事というものは、なるべく「自分に向いており、好きであれば望ましいが最低限その仕事を通してであれば無条件に人や物にやさしくできること」を選ぶに越したことはないと確信した。シンプルな話、その方が幸福の総量が増えるからだ。
関わる人の心に、一瞬でもさわやかな風が吹く。これから始まる1日が、なんとなく良いものに思える。
どうせ働かなければ生きていけないのだから、せめて誰かの心に、一瞬でも爽やかな風を吹かせる職業に就けたら。

タイトルの「切り干し大根のような日々」というのは、タイミーで某スーパーの惣菜部で働いた時に思い浮かんだものだ。そのときは出来立てでまだホカホカしている切り干し大根を小さなパックに詰めていた。樽のように大きなボウルに、無数の切り干し大根。奥のほうから、湿っぽい大根特有の湿っぽい香りが沸き立ってくる。人参や油揚げがボウルの底に溜まっているので、手で土を掘るように混ぜる。この香りが苦手な人は、きっといるだろう。

切り干し大根はもちろん、大根である。太く冷たい白肌を土に隠した、あの大根である。それが小さく刻まれ、陽の下で乾燥され、醤油などで味付けされるとあんな見た目になる。なんて頼りない姿なのだろう。

念のため書いておくが、切り干し大根は大好きだ。食感、煮詰めた大根が生み出す奇跡の甘み、ヘルシーさに付けても言うことがない。

それなのに、見るたびに哀れに思う。主役であるはずの大根は、光るような冬の白さを完全に失い、椎茸や油揚げといった付属品と同化してしまっている。立派な太身はどこかへ消え去り、口に入れるまでそれが大根だと気づかない。そう、なんだか弱々しいのだ。そんな切り干し大根を無心でパック詰めしているときに、「まるで私だ」と思った。私はこんな日々を過ごしている。それまで何も考えずにパック詰していた切り干し大根をさわる手つきを変えた。この子は私と同じだから。

この先自分がどうなっていくか、全くわからない。

周りの知人・友人たちが当たり前のようにやってのけている「会社員」というものに、お前もならなくて良いのか。お前の目指すその姿は、もっと有名にならなくちゃいけないんじゃないか。奨学金という名の借金を抱えたまま、そんなことで生きていけるのかという、悪魔の囁きにうなされる毎日。
真面目な家庭でごく普通に育った長女としての責任感や、「かくあるべし」が、しっかりと染みついて抜け出せない。それこそ、くたくたに煮込まれた切り干し大根のようだ。私の体は白いが、心は切り干し大根のように茶色い。そしてこれはおそらく、死ぬまで脱色できない。

全てに疲れた。染みついたものを嘆くことも、嫌気がさすのも、脱色しようとすることも、また茶色に引き戻されることも、もう疲れた。

「……だったらもう、私たちと一緒に切り干し大根として生きちゃおうよ」

と、某スーパーの厨房でぐつぐつ煮込まれる鍋から声が聞こえてくる。

あの日、大量にパック詰めしたあの切り干し大根がちゃんと売り切れたのか、私は知らない。






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差詰レオニー
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