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卒業:ありえた4年、選んだ4年
金曜日。私はとうとうわせだを卒業した。元気に、しかもここ最近では珍しく気持ちのよい春日和のお天気のなか、無事この日を迎えられてうれしい気持ちでいっぱいだ。
朝からキャンパスは自分と同年代のおめかしをした学生たちでいっぱいだった。
親と愛犬と写真を撮っている人、サークルの後輩たちに花を手渡される人、ゼミで集まる男女。ガウンを着た修士課程の人。
どれも、ありえた姿だった。
でも、どれも選ばなかった。
*
最後のキャンパスで思うことは、意外と感慨深さでもさみしでもなかった。ただただ「同じ学年がこんなにたくさんいたんだ」という新鮮な驚きに満ちあふれ、自分とはちがう4年間を送った他者の姿をぼーっと見つめながら私にもありえた4年間を想像するような、そんな不思議な1日だった。
大学の過ごし方は事情がない限り、自分で決められる。
少ない講義以外の時間はバイトに充てるのもよし、サークルにあてるのも、それ以外の課外活動に励んだり、恋愛や交友関係や、趣味にあてるのもよし。もしくは、勉学でも。
私はこの4年間を、自分ひとりの時間をたくさん持つことに決めていた。
自由の風がどんなに甘いか、味わってみたかったのだ。
中高の頃、私は今では考えられないくらい熱心な部活人間だった。
365日の中で340日くらいは朝から夜まで部活に明け暮れるほど、毎日練習をして、毎日厳しい顧問に怒られ、毎日愚痴り、毎日笑い、どっぷりと組織にのめりこんで生活していた。今からでは考えられないほど組織的な人間だったと思う。中学生や高校生の頃の思い出と言えば、部活のことしかほぼ記憶にない。それくらい全てを捧げていた。教室よりも音楽室にいた時間の方が長いし、同じ部活の友達はいろんな時間を過ごしたかけがえのない友達になった。
だからこそ、大学ではひとりになってみたい、と思った。
もうどこかの組織や団体に所属して、そこに全てを捧げる生活を送るのではなく、もっとちがった時間の過ごし方をしたい。部活が忙しくてできなかったことを、大学では思う存分にやりきりたい。
ひとりで自分と向き合って、自分が何を好きなのか、これからどこへ行くのか、なにが欲しいのか、そういうものにもっと自由に身軽に行動しようと思ったのだ。
私が心の底から自由を求めていたのは、中高の部活がかなり統制のきいた体育会系オーケストラの部活だったからだ。学校生活の中でさえ「世間体」というようなものが存在していて、下手な行動はできないし、下手な人と恋愛をすることも許されなかった。
高校の時に挑戦したかったけど体裁的にできなかったことを(怠惰な日常を送るとか、だらしないことをひたすらやりまくるとか)、思う存分やってやろうというのが、私の大学生活のモットーだったのだ。
振り返ってみると、そのモットーはほぼ完璧に達成されたように思う。
この4年間は、狭いコミュニティにあるあるな「体裁」的しがらみからは一切解放され、自分の個性に振り切ることができたと思う。逆に「尖りすぎ」と言われるくらい、振り切ってしまった。
たまにひとりに飽きて寂しくなったり、サークルにゼミに「充実」しているように見えるキラキラ王道大学生を見ては眉をひそめていたことはあったけれど、でも、この道を選んだことに、今まったく後悔はしていない。
書くことが好きだと気づけたこと。
吉本ばななという、人生の師匠に出会えたこと。
大好きな映画を見つけられたこと。
大好きなバンドを知ったこと。
何事にも、常識や体裁やロールモデルに惑わされず、自分の考えや感覚を持って動けるようになったこと。
これらは全て、愉快で膨大なひとりの時間で見出せたもの。
ひとりになって好き勝手に行動していなければ、出会わなかったものたちばかりだ。
もしあの時、ひとりで高円寺の古本屋に散歩に出かけていなかったら。
もしあの時、ひとりで気になるバンドのライブを聴きにいっていかなかったら。
もしあの時、単位がとりにくいとされているが自分の興味のある現代思想の講義をとっていなかったら。
もしあの時、世の中の「普通」に対する罪悪感に負けて流れで就活をしていたら。
今の私はない。
今の、私が好きでいられる私は、存在しない。
卒業式のキャンパスは、「ありえたかもしれない」自分の亡霊がたくさんさまよっているように見えた。
袴をきて、数人の仲間と一緒に学位記を上に高く上げながら、写真をとっていたはずの自分。私服の後輩に花を手渡され、祝いと別れを惜しむ言葉を告げられていたはずの自分。大学院まで進んで、真っ黒なガウンを着ていたはずの自分。
どれも選べたはずなのに、私はこれらの道を選ばなかった。当日、私は袴を着ずに赤いワンピースを着て、2,3人とだけさっと写真を撮り、誰かと食事や飲みに行くでもなく、そそくさとひとりで家に帰る人生を選んだ。
ありえたけれど、選ばなかった。それがすべてだ。
卒業式の同学年の学生たちをみながら、きっと人生はこんなふうに続いていくんだ、と思った。
私たちは、すぐそばにある選べたはずの道を捨てて、何かしらの理由があって取捨選択をし、今通ってきた道を歩いている。でも、今さら選べたはずの道のほうを嘆いても意味はない。今この道を通っている、それに全てがつまっているのだ。今ここに立っている瞬間に、私が選んだものすべての結果がつまっている。後悔をする暇など本当はなく、できるのはこの道を選んだ自分を信じることだけだ。
これからの人生をどう過ごすかは、自分で決められる。
決めようとしなくても、いずれどれかひとつの道を選ぶことになる。
私やあなたはこれからどんな道を選んでいくだろうか?
未来の妄想やプランはなんぼあってもなくならない。
どの道も、今ならすべて「ありえる」のだから。
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