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【ネタバレあり】やっぱり「プロセカ」な映画でした―『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』鑑賞感想[後編]

(※これは、ネタバレなし版の続編になります。ここからはガンガンネタバレが入りますので先にご視聴のほどお願います。)


というわけで、予防線を張ったところでネタバレ版になります。この先読み進めたところで責任は負いませんので悪しからず。









一言で表せば「『プロセカ』という映画だったんだなぁ」という感想でした。

ネタバレなしの前編ではその「プロセカ」ならではの良かった部分を列挙しファン向けとして良質の映画であったと言いましたが、裏を返すと「プロセカ」という世界観で物事のお約束ごとが進んでしまっていることによるストーリーの広がらなさ・そして初音ミクという膨張する存在との矛盾感が浮き彫りになってお世辞にも良い映画とは言えませんでした。
更に言えば(これは監督のインタビューで触れられていたので承知ではありますが)それぞれのキャラクターを知っている前提で進められるため、プロセカというコンテンツに触れたことが無い方に薦めるにはハードルが高いこと・それらの設定を知らなくて良いと割り切って観ようとすると冗長すぎるシーンが多すぎること(壊れたミクが各ユニットのセカイにお邪魔するシーン・各ユニット毎の作詞作曲シーン‥etc)が退屈にさせる要素になるかと思いました。

そういった意味で「プロセカ」は閉じたコンテンツだったんだなぁと痛感させられたと同時に外に広がっていかないモヤモヤ感がどうしてもたまらず、書いている次第です。
なお、このコンテンツの性質上固有名詞が多発するので、もし何も知らないのであればキャラクターサイトだけでも見ておくことをオススメします。

では、この個人的な気持ちの整理に付き合っていただければ幸いです。




0:あらすじ整理

CDショップで聴いたことのないミクの歌を耳にした星乃一歌。
彼女はモニターに、見たことのない姿の“初音ミク”を見つけ、「ミク!?」と思わず声に出す。
その声に驚いたミクは、一歌と目が合ったものの、ほどなくして消えてしまう。
後日、路上ライブを終えた一歌のスマホに、以前見かけたミクが姿を現す。
寂しそうに俯くミクに、一歌はそっと話を聞いてみると、
“想いの持ち主”たちに歌を届けたいのだが、いくら歌っても、その歌が届かないという。
ライブで多くの人の心に歌を届ける一歌の姿を見て、
彼女のことを知れば自分も“想いの持ち主”たちに歌を届けることが出来るのではと考えたミクは、
一歌のもとにやってきたのだった。
ミクの願いに「私でよければ」と微笑みながら一歌は答え、
初音ミクと少年少女たちの
新たな物語が始まる―。

公式ストーリーサイトより引用(https://sh-anime.shochiku.co.jp/pjsekai-movie/story/)

大体物語の前半が書かれてますね。
で、後半になってミクが消え、その原因の解決として「諦めた者たち」の再起(またやってみよう・前を向こうという気持ち)を図り各ユニットが楽曲を作り、(偶然)同時演奏し、想いが回復したので「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」(以下「閉ざされたミク」)が復活し問題が解消されたのでしたおわり、と言った感じですね(あまり詳しく書きすぎるとどこかから怒られそうなので抑えめにしました)
ストーリー展開は序・破・急のシンプル構成でエンタメ映画ならではのどんでん返し要素は薄く、「まぁそうなるんだろうなぁ」が最後まで裏切られることなく終わったので薄味感がありました。まぁユニットのライブパートを見に来てるんだからそういうのを求めるのは間違ってるとも思ったんで、ファン視点だとそんなに気になりませんでしたけどね。俺たちはキャラクターを観に来たんやと。


1:「セカイ」の出来事のスケールと「ミニマムな解決方法」のギャップ

まず、どうしても引っかかってしまうのが、物語後半で初音ミクが消えたという「事件」のスケールと、それに対して各ユニットが「グループ内のみ」で話し合いそれぞれの想いを歌にした結果解決することの釣り合わなさです。

まぁユニット同士で絡ませながら物語を作ろうとなると本編に支障が出るからやんなかったんだろうなぁってのはパンフレット内での調整の話を見て感じるところがあるのですが、それにしても3点「なぜ?」と思ったのが

  • 初音ミクが消えたことについてクラスメイト含め話すシーンをなぜ入れなかったのか(そもそも話すことをしなかったのか)

  • 「閉ざされた窓のセカイ」に誘われたメンバーたちについて、なぜ他ユニット視点だと影での描写になっていたのか

  • なぜ「閉ざされたミク」の救済に値するメンバーは5ユニット20人しかいなかったのか

1点目はビビバメンバーが、杏父から声をかけられた時に隠す動作をしていることから「セカイの事を話すのはタブー」的な不文律があるのでしょう。(これ本編で理由語ってたっけ?)

問題は2点目と3点目。
2点目について、これも物語の都合上「各ユニットがセカイで何かしらの事をやっている」という事実を隠し通さないといけないために行った演出なのは分かりますが、理由が最後まで語られることがないため、違和感が拭えません。(他セカイから来ると見えなくなる? って思ったけど本編ストーリーでガッツリ集まってるシーンなかったっけか…?)
そして3点目。今回の映画で「各ユニット以外にも『セカイ』は存在していた」という事実が分かったわけですが、そうなるとゲーム内で登場する5つのセカイ以外にもたくさんのセカイがある可能性があることは想像できるでしょう。(セカイを顕現出来なくても、何かしらのセカイと薄くでも結びついている状態だと考えています(EX:何かを諦めた人が出た際に閉ざされた窓のセカイで砂(恐らく想いのカケラ?)が吐き出されているから繋がりはあると考えて良いかと))

そして各ユニット毎の「セカイ」での違和感をきっかけに「閉ざされた窓のセカイ」に行くことになるのですが、本当に20人しかいなかったのか?
仮に「閉ざされたミク」に会ったことがある人に限定されていたとしても、なぜ20人にしか会いにいかなかったのか?(いけなかったのか?)
一応作中で理由「一歌たちは想いを他人に届けられているから」と書かれていたのですが、それが5ユニット以外に当てはまらなかったのはなぜか…と考えだすと、結局はどこかで「線引き」をしているようにしか見えません。

物語の序盤で「初音ミクがそこかしこにいる日本」という描写があるのですから、他にも想いを届けているアーティストたちは沢山います。(作中でいくつか曲MVが流れましたし)
その人たちは「閉ざされたミク」を救済することが出来なかったのか。もしそういう展開にすると「みんなで初音ミクを救う」ことになり、もはや「プロセカ」では無くなってしまうことを避けたため5ユニットに限定したんでしょうけど、こういう形で「プロセカだから…」というお約束事から抜け出せないのが、「外に広がり誰かに想いを伝える初音ミク」という広がっていくコンテンツとのギャップ感があり、結局は物語自体「5ユニットを立たせるための舞台装置」でしか無かったのかな…と、プロセカを知らなくても楽しめるコンテンツと言い難いものになってしまっていることが問題だと自分は思います。

もちろん前編でも話したように「ファン向けのコンテンツ」であるならば細部含めプロセカワールドに没入できる感じが楽しかったです。そっちに振り切ってるなぁって言うのが分かってるので割り切ってますが、「内輪感」で終わってしまっていることがコンテンツの持つテーマの1つ「伝わる」と噛み合っておらずどうしても腑に落ちないのでした。


2:各ユニットのメンバーの役割が薄すぎる

実はまだあって申し訳ないのですが、作中見ていて感じたのがこれ。
全員「なんとかしよう!」と同じ方向を向いていて、少なくとも作中ではキャラクター毎の役割が差別出来てないので「これ、1ユニットを擬人化して5人でやった方が良くない?」と思ったのでした。そしたら1人あたり5倍時間使えるし、深堀り出来たのでは…いやまぁそんなことやったら炎上ですけどね(笑)


3:結局「開かれた窓のセカイ」ってなんなんだ?

そして主に話したいことの最後として「閉ざされた窓のセカイ」が転じて構成された「開かれた窓のセカイ(パンフレットより)」はどういうセカイだよ、というのがピンと来なかった点ですね。

元々「閉ざされたミク」がいたセカイが、想いを諦めた者たちの吐き捨て場として押し付けられたものとなっていましたが、5ユニットの活躍で浄化されセカイは輝かしいものになりました。そこまでは分かる。

ただ、その「開かれた窓」が「閉ざされた窓」になるタイミングは必ず発生します。また前を向いてももう一度挫折する人が現れる可能性は十分にあります。そしてあきらめた時、また「砂」が吐き出される。そしてまたセカイは「閉じていく」。

それか、閉ざされた窓のセカイは別の「閉ざされた窓のセカイ」にいくことになるのでしょうか。色々考えたいところですが、特に作中で触れられていないので想像の範疇を出ません。

いずれにしても、問題が「解消」されたところで疑問点は2つ残ります。

  • 諦めた者たちが「開かれた窓のセカイ」から再び現れた時、初音ミクは「歌えなく」なるのか?

  • ラストシーンで「お別れ」と言っていたが、アレは「閉ざされた窓のセカイ」との断絶だったのか?

今回行ったことはセカイで害になっているものを「取り除く」ことに成功しただけで、それを「発生するのを阻止する」ことは何もやっていません。結局「解消」は進んでも何も「解決」してないんですよね。

そんなセカイで「開かれた窓のセカイの初音ミク」はいつまでも笑顔でいられるのか、あるいはまた「閉ざされた窓のセカイ」に戻るリスクを含みながら歌い続けるのか―恐らく前者でユートピア的な存在としてあり続けるんでしょうけど、そうだとしたら諦めた者たちの集合体はどうなってしまうのか、セカイすら形成されずに沈むだけなのか。


4;総評

以上、初回で映画を観た限りでの感想になります。

冒頭でも話したように、良くも悪くも「プロセカ」という映画でした。ファンであれば面白い要素が詰め込まれていて見飽きないものとなりますが、そうでなければのめり込みにくいモノであったと思います。

もちろん万人受けする映画を作れと言うわけではないのですが、少なくとも「初音ミク」は外へ広がり続け人々に想いを綴っていくコンテンツの命を背負っています。それが「プロセカ」という枠に押し込めて「プロセカ」のセカイを遵守しお話が進んでいくとなると「プロセカの初音ミク」という文脈で終わってしまってしまい「初音ミク」としての物語が観れなかったのが残念に感じるのでした。

自分自身は「推し」の強いコンテンツだからこそもっと外に広がる工夫をしていった方が良いと思ったのですが、この辺で〆ることにします。
ここまで読んでいただきありがとうございました。映画の考察の糧になれば幸いです。

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