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明日からコロナに怯えないために

 コロナ禍で、政府が悪い、メディアが悪い、中国がわるい、若者が悪い、陰謀論者が悪い、医療界が悪い、とみんなが罪人を探している。

 なぜ私たちはこうも罪人探しに躍起になるのか。存在しない犯人を探すために世界中の人々が必死になっているというのは、終わらない混沌で、その理由を、憤りよりも知的好奇心で知りたい人達に向けて書いた。

 コロナ禍は壮大な事象のため、私はいくつかの本から知識と知性を借りた。

 読んでくれたみなさんの知的好奇心を満たせたなら幸いである。

❶ なぜコロナ禍はパンデミックではないのか?

 2020年3月11日にWHOのテドロス事務局長が新型コロナウイルスの世界的流行をパンデミックと評価した。

 だがコロナ禍はパンデミックではない。理由は過去の悲惨な感染症被害を見ればわかる。かつての感染症災厄と比べると、人類への影響があまりに小さいのだ。

 歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの著述を引用する。

一四世紀には、飛行機もクルーズ船もなかったというのに、黒死病(ペスト)は一○年そこそこで東アジアから西ヨーロッパへと拡がり、ユーラシア大陸の四半分を超える七五○○万〜二億人が亡くなった。
一五二○年三月、フランシスコ・デ・エギアという、たった一人の天然痘ウイルス保有者がメキシコに上陸した。当時の中央アメリカには電車もバスもなければ、ロバさえいなかった。それにもかかわらず、天然痘は大流行し、一二月までに中央アメリカ全域が大打撃を受け、一部の推定によると、人口の三分の一が亡くなったとされている。

ユヴァル・ノア・ハラリ『緊急提言 パンデミック 寄稿とインタビュー』
訳 柴田裕之 河出書房新社 2020年 16頁

 歴史上の疫病は、読んでわかるように人口の何分の何が死んだ、という破壊力があった。
 比べて今回の新型コロナ禍で、日本の2020年の死亡者は、前年より約9000人減った。今までは高齢化で毎年平均2万人づつ増えていたのにもかかわらず、パンデミックの渦中にあってむしろ減ったのだ。
 平均寿命も過去最高を更新した。(男81.64歳、女87.74歳)
 この違和感は日本だけではないようで、フランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッドがインタビューで以下のように語っている。

新型コロナのほうは、そのうち死者の8割が75歳以上となっていきそうです。今回のパンデミックが人口動態に大きな影響を与えるわけではないことは認めなければなりません。
『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』編集 クーリエ・ジャポン
講談社 2021年 32頁

 (※ちなみに、エマニュエル・トッドは高齢者のために若者や現役世代を犠牲にするロックダウンはすべきではないとも語っている。ユヴァル・ノア・ハラリは、新型コロナは14世紀には誰も気にしなかっただろうが、現代社会的には緊急事態になると述べている。)

 死者数や死亡者の平均年齢という主観の入りにくいデータを基準に人類への被害を見る限り、明らかに歴史上のパンデミックとは違う。
 しかし、歴史上最大級の感染症パニックになり、今だに(2021年8月現在)日本社会は正常化しない。

 なぜ、今回の集団ヒステリーは起きたのか。
 それは14世紀とは比較にならないほどメディアが発達し、恐怖を煽ったからだ。

❷ なぜメディアは恐怖を煽るのか?

 本来メディアの目的は恐怖を煽ることではない。彼らの目的は、耳目を集め注目されることなのだ。
 視聴率の高いテレビ番組や、閲覧数の多いインターネットサイトは、人通りの多い街中の看板のようなものだ。宣伝効果があるので企業は高い金を看板の持ち主に払って広告を貼る。

 なので、テレビやネットなどのメディア(看板の持ち主)は人々の注意を集めなければならない。ここは沢山の人が見てくれる看板です、と広告主に訴えて認められなければ収入が途絶えてしまう。
 これが、テレビが人気アイドルだらけのドラマを作ったり、ネットが芸能人のゴシップを流し続たり、そして恐怖をあおるニュースを流す理由だ。

 我々は無料でエキサイティングなコンテンツを見られて得した気分になっているが、実は自らの注意という資産を払っている。
 人の一日は等しく24時間しかないため、人々の注意は有限で、メディアはその限られたパイの取り合いをしており、ますます過激に、狡猾になっていた。
 メディアとその広告主のやり口を痛切に表現した文を以下に紹介する。

ある怪しげな億万長者が、次のような取引をあなたに持ちかけたとしよう。「毎月三○ドル払いますから、その代わり、毎日一時間、あなたを洗脳して、私の望みどおりの政治的偏見や商品に関する偏見をあなたの頭にインストールさせてください」。あなたは、その取引に同意するだろうか? 正気の人なら、まず同意しないだろう。だから、その怪しげな億万長者は、少しばかり違う取引を提案する。「毎日一時間、洗脳させてください。このサービスは無料で提供します」。すると今度は、突然この取引は何億もの人に魅力的に聞こえるらしい。
ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons 21世紀の人類のための21の思考』
訳 柴田裕之 河出書房新社 2019年 315-316頁

 毎日あなたは何時間もテレビ見たり、ネットサーフィンするように誘導されているのだ。そして、よく知りもしない政権を批判したり、欲しくもなかった商品を買ったりする大人になっていく。

 メディア側はさらなる注意を集めるべく貪欲に探求を続け、ついに新型コロナウイルスという極上の人気コンテンツを見つけた。
 以来、メディアは来る日も来る日もコロナのニュースを流し続け、2021年の夏、オリンピックに次ぐ日本人の娯楽といえば、コロナウイルスのニュースを見て恐怖の感情を刺激し、怯えたり怒ったりすることになった。

 ニュースの性質については、ハーバード大学心理学教授のスティーブン・ピンカーが『21世紀の啓蒙 上』(訳 橘明美 坂田雪子 草思社 2019年)で分析している。
「ニュースは何かが起こるから報じるのであって、何も起きなければ報じない。キャスターがカメラに向かって『戦争が起こっていない国から生中継でお伝えしています』ということなどありえない」(88頁)。実際は沢山の良いことが世界では起きているのだが「悪いことは一瞬で起こりうるが、良いことは一朝一夕では成し遂げられず、ゆっくり展開するあいだにニュースの時間軸から外れてしまう」(89頁)ので、メディアは悲観論で溢れる。
 日本においても、通り魔殺人や、子供の餓死などのニュースはワイドショーでセンセーショナルに報じるが、戦後犯罪が減少し続けていることや、極度の貧困がほぼ完全になくなったことはあまり知られていない。

 メディアは恐怖を煽れば人々の注意を惹きつけられると知っていた。
 だがなぜ、我々は恐怖を煽るニュースに、ここまで注目し、心を奪われてしまうのか?

❸ なぜ恐怖は人の心を惹きつけるのか?

 私たちが恐怖に囚われがちなのは、人類の進化の歴史を考えると納得できる。
 250万年前最初期の人が地球に現れ、アフリカのサバンナで生活していた。やがてホモ・サピエンスが20万年前に誕生し、7万年前の認知革命を遂げて現生人類になったとされる。
 私たちの進化の流れをがわかる以下の引用を見てほしい。

一○○万年前に生きていた人類は、脳が大きく、鋭く尖った石器を使っていたにもかかわらず、たえず捕食者を恐れて暮らし、大きな獲物を狩ることは稀で、主に植物を集め、昆虫を捕まえ、小さな動物を追い求め、他のもっと強力な肉食獣が後に残した死肉を食らっていた。
ホモ属は食物連鎖の中ほどに位置を占め、ごく最近までそこにしっかりと収まっていた。
過去一○万年間に初めて、人類は食物連鎖の頂点へと飛躍したのだった。
私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置について恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上)ー文明の構造と人類の幸福』
訳 柴田裕之 河出書房新社 2016年 23-24頁

 つまり、ライオンなどの猛獣に捕食される側だった時間が長すぎて、私たちの脳は常に、恐怖心が楽しいことや幸せなことを塗り潰すようになっている。
 この説は進化心理学では定説で、スマートフォンの悪影響を懸念しているスウェーデンの精神科医も著作の中でこう言っている。

ネガティブな感情はポジティブな感情に勝る。
食べたり飲んだり、眠ったり交尾したりは先延ばしにできるが、脅威への対処は先延ばしにできない。
アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』
訳 久山葉子 新潮社 2020年 39頁

 私たちは、出自がひ弱な被食者だったので、常に周囲に脅威がないか警戒し、不安要素を探してさえいるのだ。それが生存率を高めてくれた本能なのだから仕方ない。

 しかし現代の、情報が常に溢れる社会では、無限に心配事を発見できてしまう。
 メディアはそれを承知で、殺人事件、災害、若者の乱痴気騒ぎ(治安悪化)、などの恐怖を煽るコンテンツを日々、ニュース一覧という棚にしっかりと並べるのだ。
 では、恐怖煽りコンテンツによって沢山の人々の注意を獲得したら、次に何をするか。
 テレビでもネットでも、コロナ禍の悲惨さを取り上げて、次に何をしているのか、見てみるといい。大抵は、誰かの失策や、誰かの罪をあげつらい、海外の成功例を紹介しては日本を貶めている。
 一体なぜ、高い金を払って大衆の注意を獲得したエリート層は、こんな非生産的な思考過程を人々にインストールさせたがるのか。

❹ なぜエリート層は悲観論をインストールさせたがるのか

 メディアを支配するほどのエリート層が、日本の現状を嘆き、誰かを批判するため海外の政治家を持ち上げるのは、端的に言えば、自分の地位を高めるためである。このやり口は使い古されていて、スティーブン・ピンカーがトマス・ホッブスの言葉を借りてこう言っている。

現代社会は政界、産業界、財界、技術界、軍事および学会のエリートの集まりで成り立っていて、そこでは誰もが名声と威光を求めて競争しながら、それぞれの分野を背負って社会を動かしている。そういう場で現代社会を批判すれば、間接的にライバルを引きずり下ろすことができるーーつまり学者は実業家を貶め、実業家は政治家を貶め、政治家は……と続く。トマス・ホッブスは一六五一年にこう書いた。「称賛を求めて争う場合には、古代を崇めることになりやすい。というのも争う相手は生者であって死者ではないので、死者を崇めることで生者を貶めることができるからだ」
スティーブン・ピンカーが『21世紀の啓蒙 上』訳 橘明美 坂田雪子 草思社 2019年 104頁

 まさに今日本で起きている現象だ。誰かはオリンピックを実行した政府を批判し、誰かはベッド数を増やさない医療界を責め、誰かは営業自粛をしない飲食店を槍玉に上げている。そして、古代を崇める代わりに海外の政治家や、政策を褒め称え、セットで日本は駄目だとわざとらしくため息をつくのだ。
 彼らの動機は敵の地位を下げて自分の権威を高めたいという欲求だ。
 悲しいことに、大衆はまんまと悲観論をインストールさせられて、誰かを咎めている。
 では私たち大衆は、今一番、誰を責めているのだろか。
 それは、大衆自身に存在する、自粛をしない若者や、マスクをしない人である。大衆は政治より、医療界より、同じ階級の規律違反者が許せない。
 ただ、そう仕向けられたのはもちろんなのだが、規律は日本の大衆ウケがいいという素地があった。

❺  なぜ自粛は大衆ウケするのか

 自粛のような禁欲的な統制へ、日本人はノスタルジックな憧憬がある。
 例えば、坂口安吾の『堕落論』で、戦争中の東京について述べた文が印象的である。

私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。

 日本人は規律好きである。ハロウィンに渋谷で騒ぐ若者が嫌いで、統制された子供たちが運動会で組体操するのを見たがる。
 何も考えず、無思考になって統制されることを美德とするのだ。
 コロナ対策として導入された自粛は、すぐに道徳的問題にすり替わった。河原のバーベキューはネットリンチの対象だが、満員電車が見過ごされたのは、極めて日本人的だ。満員電車の乗客ほど匿名的で無意志そうな集団はなかなかいない。
 みんなが守っている規律を盲目的に守らなければという日本人の美徳だけではなく、また、自粛やマスクのおかげで感染者が減っていると思いたい原因帰属の心理的習性も、コロナ対策を促進した。
 さらに無意味な仕事を社会人になってから長らく続けている多くのサラリーマンは、コロナ対策の馬鹿馬鹿しさに気づきつつも、今までの業務がもともと下らないブルシットジョブだったので、反発する気力がなかったと思う。

まとめ

 パンデミックになり得ないはずの弱毒の新型コロナは、人々の注意を集めることを職業的使命とするメディアによって恐怖のウイルスとなった。注意が十分に集ると、エリート層や知識人はスクリーン越しに悲観論を垂れ流し、敵を貶めることで自分の地位向上を目指した。そして、大衆が、政権や医療界、なにより大衆自身を咎めるような思考回路をインストールした。大衆が大衆を批判しやすくするために、彼ら好みの味付けにする必要があり、それが自粛やマスクのような規律だった。大衆はその規律違反者を憎悪する思考回路を、日々メディアを通じてインストールされているのである。


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