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小説『覗く』

前に進むたびに足元の靄がどんどん白く濃くなっている。手持ちのランプに入ったろうそくの火が風にあおられている。目の前の彼が少しせき込む。火が揺れると周りの影も揺れて、僕の輪郭も、彼の色もあやふやになってしまっている。先程の塔のような場所からどれぐらい歩いたのだろう。そんなに歩いてないような気もするけれど、足の痛みが増しているような気もするから、結構歩いているのかもしれない。今度は深めにせき込んで、少し前を歩いていた足がピタリと止まった。額には少し汗が流れていた。

「私が案内できるのは、ここまでです。」

彼は振り返って笑顔で話した。先程まで、言語を発することができていなかった彼から、自分が理解できる言語が投げられて僕は驚いてしまった。口をはくはくとさせた僕に彼は少し笑ってから続ける。

「やはり、言葉の子はこちら側にも来られるのですね。」
「僕は…、意味が分かりません。」

僕は手持ちのランプを返しながら、彼に返事した。彼は随分と満足そうで、僕はそれも理解できなくて、僕はもっと上手く話せると思っていたんだけれど、ここにいるとどうしてかうまく話せなっていくような感覚がずっと付きまとう。

「どうしてほしいの。」

誰かに聞いて、その通りに行動したくなる。そこに僕の意志は無いからきっとつまんない未来になることは痛いほど知ってしまったのに。何か楽しいことがあったとしてもあの時選んでいなかったらを考えるだろう。臆病になってたくさん逃げてきた僕に決断を任せるの。そんな僕に何を期待しているの。

「たまにでいいから、またここに来てください。出来れば私の続きを。」

彼は僕に世界をゆだねた。足元の靄がさらに濃くなって、彼の持ったランプの灯を消した。光に照らされていた彼の姿は見えなくなってしまった。次、彼に光ることがあるとしたらそれは僕が照らせたらいいな。僕は彼に背を向けて歩き始めた。

彼と別れてからしばらく歩いた後、目の前にはまたドアがあった。歩いている間に分かったことがいくつかある。この場所は全く違う世界や空間を繋ぐ廊下のような役割をしている場所であること。そして、流れ着いた僕のようなものは移動が出来るがその空間に住んでいる彼のような存在には移動することが難しいということ。なんとなくこの場所のこと分かってきたけれど、それ同時に生まれてしまった疑問がある。

「僕はどこの空間に住んでいたんだろうか。」

そもそも僕に生まれた場所はあるのだろうか。当然の疑問だろう。僕は目が覚めたら舞台の上にいて、ピンクの海に溺れて、彼に会った。それよりも前のことは、何も知らないんだよ。目の前のドアを開ければわかるのだろうか。靴底にあったはずの靄が膝の高さまで増していた。ドアノブを捻って押そうとするが向こうから何かに押されているように重く動かない。しばらくドアの前で立ち止まっていると、向こうから押しているものは障害物などが置かれているわけではなく、気圧であることであることが分かった。それが分かった僕は静かに空気の流れが弱くなるタイミングを待った。風の音と強さが変わるのを待っていた。そして、今ってタイミングで一気に押し開けた。

押し開けた先は空だった。ドアノブを握ったままの右手、踏みしめる床の無い左足。その足がドアの一番低い所よりも下がっていくのを感じる。その瞬間、ガクッと体が真っ直ぐ落ちた。そして、右手の比重が重くなる。手汗でどんどん滑り落ちてきている。床の無い足元を見ると白い靄の中から少しだけ緑色した地面が垣間見えた。落ちるならあそこに着地しなければ。妙に冷静に考えられていることに驚きながらも、風のタイミングを見て出来るだけ緑色に近づくように右手をゆっくり離した。

白い靄をくぐった先にうまくバランスをとれなかった僕がうずくまっている。何だか落ちてばかりいるな。左肩がじんじんするけど、とりあえず無事に着地で聞いてよかったなとほっとした。少しみずみずしさを感じる芝生の上でごろんと仰向けになる。そのまま目を開けて空を眺めていると白い靄の正体である雲の隙間から茶色のドアが浮遊しているのが見える。落ちた時に気付いたが僕が着地したこの場所は広い浮島で、その真ん中に崩落しかけて空洞になった塔がある。浮島の端は風が強い。崩落していても風よけぐらいにはなるだろうと塔の方に向かう。左肩を押さえながらゆっくり立ち上がる。僕を案内してくれた彼がいた塔は灯台のようなものだったが、ここにあるのは道標のために作られたように感じる。塔の下まで歩いていくと天井と所々壁が崩落しているのがわかる。が、思ったよりも崩れてなくて安心した。壁には色のついたガラスがはめ込まれており、割れたガラスが石レンガの地面にばらばらと散っている。

塔の真ん中には白い机が置かれている。少し離れたところに青色の椅子も置いてある。痛む左肩をかばいながら椅子を机に近づけて置いてみた。真ん中にはガラスの破片が飛んでいないようで危険そうに見えなかったので、とりあえず座ってみる。ご丁寧にクッションまで置いてある。貝殻のような柄の入ったグレーの小さなクッション。持ち主は随分地味なものをお好みのようだ。あと、目につくものと言えば机の上の紙と万年筆、そして赤いパソコンと白いマウス。椅子に足をかけて、クッションを抱きしめている。何したらいいんだ。

「君、言葉の子になったんだね。」
「誰、ですか。」
「僕は君の名前で、君の始まり。」

背後からいきなり声が聞こえてきた。軽いウェーブのかかった髪に何となく見覚えがあるような気がした。僕は、自分のルーツを知る人間を見つけて高揚した。過去が欠如しているからか、自分の足りないものを補えるこの人の魅力から逃げられなくなっていた。

「どうせ暇でしょ、僕の話聞いて行ってくださいよ。最も君には聞かないという選択肢はないだろうけど。」

彼は微笑んでいた。僕はただ、黙るしかなかった。

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