始まりと途中と終わりがあるもの
今回は「始まりと途中と終わりがないものに惹かれる」の続きを書きます。
「「複製」という言葉のイメージ」の続編でもあります。
*始まりと途中と終わりがあって、たちまち消えてしまうもの
作品と呼ばれるものの話です。
始まりと途中と終わりがあるものには、たちまち消えてしまうものがたくさんあります。でも、それを記録したり、録音したり、録画すると、始まりと途中と終わりがあって、残っているものになります。
よく考えれば、当たり前なのですけど、こうやって言葉と文字にして眺めると不思議な気がします。
始まりと途中と終わりがあるものには、たちまち消えてしまうものであって、同時に残っていると言えそうなものもあります。
「消えてしまう」と「残る」は言葉では矛盾するのですが、そうした言葉では相反することが現実ではあるような気が私にはします。
よく考えれば、今述べたことも当たり前なのかもしれませんが、私にとっては、これは考えれば考えるほど不思議に思えます。考えないほうが楽なのかもしれません。
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整理します。
*始まりと途中と終わりがあって、たちまち消える
・楽曲の演奏、媒体から再生された楽曲(音声)
・お芝居の上演、媒体から再生されたお芝居(映像)
・映画の制作、映画の上映(銀幕上の影)
・小説の執筆(創作の現場での作業というか、いわばパフォーマンス)、小説の読書(黙読・おそらく頭の中で起こっていること)や音読(読み聞かせも含む)、つまり広義の鑑賞
(上の各例で後者は作品の鑑賞に当たりますが、「始まりと途中と終わり」というサイクルが完結するとは限りません。途中で鑑賞をやめる、つまり中断することもあるでしょう。また断続的に鑑賞することもありえます。たとえば、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を数年間かけて読んだという話はよく聞きます。数行だけ読んでもうやめたという話もよく聞きます。)
*始まりと途中と終わりがあって、残っている
・楽曲の譜面(もしあればの話)、楽曲の演奏が録音された媒体(レコードやCDなど広義のディスク、録音テープ)
・お芝居の台本(もしあればの話)、お芝居の上演が録画と録音された媒体(広義のディスク、録画テープ)
・映画の台本や記録や資料(もしあればの話)、フィルムとサウンドトラック
・執筆された小説の下書き・メモ・自筆原稿・ゲラ(もし残っていればの話)、完成した小説(書物、雑誌の掲載)
(今私がいちばん興味のあるのが、小説の執筆においての「始まりと途中と終わり」(上の太文字の箇所)です。ここが、散文という形式における、私の目下最大の謎でもあります。散文の執筆中に何が起きているかということなのですが、今思うには、おそらく、始まりと途中と終わりのない「いまここ」なのです。⇒「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」)
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以下は、マルセル・プルーストの命日である11月18日ころに、私のXのタイムラインに流れてきた、プルーストの自筆原稿の写真です。
なお、以下は『失われた時を求めて』の冒頭のセンテンスらしいです。写真の出所が不明なのですけど、ご参考までに。
いずれにせよ、例の「Longtemps, je me suis couché de bonne heure.」が見て取れます。
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なお、ラジオやテレビでの放送、ネット上での投稿や配信、デジタルデータ(情報)としての鑑賞と処理と保存については、ここでは考えないことにします。私はそうした分野には疎くて、イメージできないのです。
とはいえ、上で述べた、レコードを除く「広義のディスク」のほとんどがデジタル化されたデータですね。現在、作品について語るとき、避けては通れないもののようです。
*プレイ、パフォーマンス
始まりと途中と終わりがあるものは、プレイやパフォーマンスという言葉でイメージするとわかりやすいかもしれません。
・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
要するに、身振り、動作、運動が起こっています。動きは時間の経過というか時間の持続の中で体験したり知覚するものですから、始まりと途中と終わりがあるのは当然です。流れや進行やストーリーや展開があるとも言えるでしょう。ドラマもありそうです。
たとえば、絵画や写真とは、そこが違うと考えることができます。一枚の絵画や写真には、そこに順番や順序を示す記号や数字がないかぎり、基本的には順序がなく、始まりと途中と終わりはないと言えます(いや、そうでもないかも……)。
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以上のように考えると、スポーツの試合やパフォーマンス(演技)、芸能、広義のゲーム、賭けごとも、始まりと途中と終わりがあって、たちまち消えてしまうものとしてあり(起こり)、それを記録、録音、録画した媒体が始まりと途中と終わりがあるものとしてある(残る)と言えそうです。
要するに、始まりと途中と終わりがあるものは、作品(フィクション)だけでなく、出来事、事件、場合によっては事故(ノンフィクション)という形をとりうるわけです。簡単に言うと、イベントでありアクシデントです。
(それはそうです。時間の経過および持続の中にあるものすべてが、始まりと途中と終わりがあるものだと言えそうです。人も物も事も、時間というものに、等しく拘束(拘禁)されているのですから。)
そう考えると、フィクション(作品・人のつくるもの)とノンフィクション(出来事・人の作為に関係なく起きること)のさかいが定かではなくなってきます。例のノンフィクションの中にフィクションがあるのか、それともフィクションの中にノンフィクションがあるのかという議論にもつながりそうです。
この考えを押し進めると、例の真実かフェイクかという線引きにまで話が及んでも不思議はありません。真偽、正誤、善悪の線引きがますます定かではなくなっていくのです。
万物流転。万物は過客。流れの中にあるのは移ろいゆく関係性と役割だけ。
人はと言えば、シェイクスピアが言ったように、世界という舞台では、誰もが役者(player)なのでしょう。
*「客」という言葉と文字のイメージ
何かに似ている――。
プレイヤー(player)・役者という文字を見ていて、既視感を覚えたので考えていたのですが、「客」に似ています。
お客さんに似ているというよりも、「客」という言葉と文字のイメージにどこか似ているのです。
以上は、「「似ている」を求めて(「客」小説を求めて・01)」からの引用です。
広義のプレイヤー・パフォーマー(演奏者・演技者・競技者・ゲーマー・ギャンブラー)は、常に「さかい、はし、ふち、へり、きわ」に立たされていないでしょうか?
プレイをする場所(盤・ボード、台・舞台、競技場・フィールド)は、「うつる、うつす、うつろう、うつりかわる」場ではないでしょうか?
そこを支配する旋律・流れ・コード、規則・ルール、スタイル・型もまた、不変ではなく(普遍は不変ではないのです)「うつる、うつす、うつろう、うつりかわる」ものとしてあるのではないでしょうか?
プレイヤー・パフォーマーも、場・フィールドも、流れ・ルールも、世界という大きな目から見れば、かりそめにその役と場を借りている「客、過客、客人・まろうど」ではないでしょうか?
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めちゃくちゃこじつけて、ごめんなさい。でも、そんな気がします。このところ、似ている感のとりこになっているようです。
*器と中身
作品に話を絞ります。
上で挙げた始まりと途中と終わりがあるものに、
・たちまち消えてしまうもの
と、
・物として残っているものや、物としてあるもの
があるとすれば、私たちはどのようにして、そうしたものや物と付き合っているのでしょう。
体験する、鑑賞する、観戦する、プレイする、所有する、利用する、消費する、借りる、もらう。
めでる・愛でる、いつくしむ・愛しむ・慈しむ、なでる・撫でる、ふれる・触れる。
以上の言葉が浮びます。
対象は物でも事でもありえます。
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始まりと途中と終わりがある「物」であれば「器」、始まりと途中と終わりがある「事」であれば「中身」――そんな言い方もできそうです。
物・器をいつくしむ、めでる、たのしむ
事・中身をいつくしむ、めでる、たのしむ
たとえ、たちまち消えてしまうものであっても、その「器が」あれば、その中に「命」を感じることができるのではないでしょうか?
この「命」は、人でなければ感じられないものだと思います。
今、私たちは「物」に囲まれています。もともと自然界にあった物ではなく、人のつくった「物」たちです。その多くが、「器」としてあるような気がします。
ある意味、「空(から)」、つまり「殻」なのです。人でなければ、その「中身」や「命」は感知できません。
楽曲を収めたレコードと、小説を収めた書物と、映画を収めたフィルムを思い浮かべてください。そのどれもが、物理的には物であり、空・殻なのです。
試しに、猫にレコードと書物とフィルムを差し出してみれば、それらが物であり、空・殻であるとわかります。冗談ではなく、です。猫は聡明な生き物です。ヒトのつくるまぼろしには関心を示しません。
でも、ヒトは物理的な(フィジカルな・physicalな)世界にいながら、同時に、ヒトとしての身体的な(フィジカルな・physicalな)世界にもいるのです。
そのヒトとしての身体には物に命を感知する力があるのではないでしょうか。これは呪術とかかわる力だと私は考えています。ヒトは太古から一貫して呪術の世界に生きているのです。そこが、たとえば猫と異なります。
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話を絞りましょう。人のつくる作品と呼ばれることもある物たちに話を絞ります。
現在は、作品のオリジナルが不明であったり、曖昧であったり、たどることができないというより、たどることが現実ではないものとしてあります。
(私の好きな言い方をすると、作品とは複製の複製、オリジナルなき複製、引用の引用、起源なき引用なのです。オリジナルとか起源は知識や情報や物語でしかなく、目の前にある作品を見えなくする、まぼろしなのです。)
そのために、私たちは作品を複製や引用の織物と意識しないままに鑑賞しているし、体験していることがあるようです。
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作品は、一人ひとりの目の前に物としてあります。
作品とは、その物に映る文字、その物から流れてくる音声、その物から流れてくる映像としてあるわけです。それが現実だと思います。人にとっての現実です。
そうであれば、物にふれて、いつくしみ、めでようではありませんか。
具体的には、たとえば、さきほど述べた、レコードや書物やフィルムのことです。複製にはちがいありませんが、それ以上に愛おしい物なのです。
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人のつくるものは人に似ている。人は自分のつくるものに似ていく(真似ていく)――。
そんなふうに私は感じているのですが、人のつくる始まりと途中と終わりがあるものもまた、人に似ているし、人は自分のつくる始まりと途中と終わりがあるものを、これから先も模倣していくだろう、と思えてならないのです。
人も、人のつくるものも、時間という逆らえないものの中で生きています。そもそも人こそが、始まりと途中と終わりがある存在だという意味です。
そう考えると、人によってつくられる始まりと途中と終わりがあるものたちが限りなく愛おしいものに感じられてなりません。
ひょっとすると、人は自分たちのつくるものを始まりと途中と終わりがある器に収めて、埋葬しているのかもしれませんね。いっしょに連れてゆくつもりなのでしょうか。
でも、どこへ?
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長くなってきたので、この辺で今回の話を終えます。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
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