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映・写、移・動(スクリーン・02)

 今回は「さえぎる、うつす、とおす(スクリーン・01)」の続きです。

「リーダーズ英和辞典」(研究社)と「ジーニアス英和大辞典」(大修館書店)で screen を調べると、以下の日本語訳が目に付きます。

 1)さまたげるもの、さえぎるもの。ついたて、すだれ、びょうぶ、幕、とばり、障子、ふすま、仕切り、障壁、目隠し、遮蔽物、遮蔽、スクリーンプレー。おおい隠す、かくまう、かばう。

 2)うつすもの、うつされるもの。スクリーン、映写幕、銀幕、画面、映画。映画化する、脚色する、撮影する、網がけ・網どりする。

 3)とおすもの、ふるいにかけるもの。網、網戸、ふるい、編目、砂目、フィルター、百葉箱、審査制度、選択制度、選抜、スクリーニング。審査する、選抜する、排除する、除外する。

 さえぎる、うつす、とおす――。screen の三つの性質が同居するようすを文学作品の中で見てみます。

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彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムのぬくみでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指でくまでその鏡はなかったのだ。
(川端康成『雪国』新潮文庫p.8)

 引用箇所には、車外の寒さを「さえぎる」窓ガラスがあり、温度差によって水蒸気で濡れたガラスが向かい側の座席の女を「うつす」さまが説明されています。車外の「夕闇」と車内の「明り」という明暗によって「窓ガラス」が「鏡」に転じていることも説明されている。描写というよりも説明に傾いた記述だと言えそうです。

     *

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つがけ合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。ことに娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえたほどだった。
(川端康成『雪国』新潮文庫p.10)

 この段落も説明口調に感じられますが、レトリックの面で興味深い部分があります。

・「鏡の底には夕景色が流れていて」:

 窓ガラスは移動中の汽車のものであり、ここには「写る」だけでなく、「移る」もあることに気づかされます。単なる景色ではなく、横へ後ろへと「流れてい」る、つまり移り動いている景色なのです。作者は「映す・映る」ではなく「写す・写る」と表記していますが、この汽車の場面には「写・映」だけでなく「移」があることは、注目していいでしょう。汽車のうごき・うつる(移動)という運動の中で、鏡と化したガラスの中での二人の人物のうつる・うごき(映写)が見られる。モーターで駆動する映写機にかけられたフィルムが光を受けて流れ駆ける。比喩を駆使した「二重写し」の「象徴」的な景色なのです。

 うつる、写・映る(窓ガラス)、映・写る(映画)、移・動る(汽車)
 映写機、移動機

 怪しげで妙な日本語の表記になっていることをお許しください。言い訳をさせてもらいます。

「象徴」とは、本来かかわりのない別のもの同士が同時に同居することなのであり、同じに見えながら別個のものなのです。説明にもならない言い訳で失礼しました。

 映画について考えてみます。

 光源、フィルム、レンズ、銀幕――。フィルムとレンズをとおった「かげ」が銀幕にさえぎられてうつる。詳しく言うと、「ひかり」がフィルムとレンズによって「さえぎられる」、フィルムとレンズを「とおる・ふるいにかけられる」、銀幕によって「さえぎられる」、銀幕に「ひかり」と「かげ」が模様を織り成しながら「うつる」わけです。

 映画においては、フィルムとレンズもスクリーンの役目を果たしていることがわかります。目で言えば、うつす網膜だけでなく、「さえぎりつつふるいにかけてとおす」レンズ(角膜と水晶体)もまたスクリーンだということでしょうか。そうなら意識もまだらでまばらなスクリーンだと言えそうです。

 ところで、古い日本語では、「かげ・影」という言葉が今の日本語の語感よりも厚みを持っていたそうです。たとえば、辞書(広辞苑)で「つきかげ・月影」を調べると次の語義が見えます。

 月のひかり。
 月の形。月の姿。
 月の光に映し出された物の姿。

 かつては「ひかり」も「かげ」と呼ばれることがあったようです。

・「つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。」:

 このセンテンスでは、寒さを「さえぎる」窓ガラスが「とおす」車外の景色と、窓ガラスが「うつす」車内の景色が「映画の二重写し」にたとえられています。この場面を書くにあたって映画の比喩が用いられているに注目したいです。車窓はまさにスクリーンなのです。

     *

 以上のように、『雪国』の冒頭の汽車の場面では、スクリーンの持つ三つの機能がそろって出てきます。

「さえぎる」窓ガラスというスクリーン、「うつす」窓ガラスというスクリーン、「とおす」窓ガラスというスクリーン。

 それだけではありません。とおされ、さえぎられ、うつされる、影たちがいます。この作品は、影たちのために書かれたのです。

 さえぎる、うつす、とおす――。

 これから、この「スクリーン」というシリーズで触れていくつもりですが、私は紙もまたスクリーンだと思います。そして、紙というスクリーンにうつる文字は影だとも思います。

 もしも文字が影だとしたら、影は影でも月下と灯下の影ではないでしょうか。

 火をうつし 夜のとばりに うつる影

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