
見る、見られる(する/される・02)
「する/される」というシリーズの二回目です。「相手に知られずに相手を見る(する/される・01)」でお話しした「一方的に見る」「一方的に聞く」という行為について、今回はもう少しこだわってみます。
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
こうした状況と身振りは、決して他人事ではなく、日常生活で私たちの誰もが経験していることであり、それは傍観、窃視、傍聴、盗聴と呼ばれている行為とそれほど遠くはない。そんな話をします。
双方向的に見る
お互いに見る、つまり、相手を見て自分も見られる。双方向的に見る。
この行為にはさまざまなバリエーションがありそうです。
*
・一方が主導権を握っている場合。
・一方が相手の一部しか見えない場合。
・一方が相手を見る時間が限られている場合。
・一方が一度だけ相手に姿や顔を見せて、あとは見えない場合。
・一方が一度だけ相手に姿や顔を見せて、あとは声だけが聞こえる場合。
・一方が写真や絵や動画として相手に姿や顔を見せて、声だけでやり取りする場合。
まだあるでしょうが、以上の場合が考えられます。
知らない間に見られている双方向性
上のように書くとややこしいですが、よく考えるとどの場合も、日常的に経験しているのではないでしょうか?
とりわけ、パソコンやスマホをつかうことの多い現在では、上に挙げた例が当たり前化している気がします。
誰もが画面をとおして「見る側」にいるのです。同時に画面とカメラの搭載された機械をとおして「見られているかもしれない」のです。
誰もが一方的に見る側にいながら、知らない間に見られているかもしれない、という意味です。
*
知らない間に見られているという意味での双方向性があるのです。滑稽であり同時に恐ろしい状況でもあります。
いま述べた場合の双方向性は、じつは一方向性に限りなく近いとも考えられます。
知らぬが仏という感じでしょうか。
見られる、映される、写される、移される
こうも言えるでしょう。
たとえば、大災害や戦争が起きた場合には、誰もが一方的に見られる側に立たされる可能性がある時代に私たちは生きている、と。
現在、目は至るところにあります。カメラの目のことです。従来のカメラだけでなく「スマホのカメラ」のことです。
テレビのニュースやネットでの配信(プロだけはなくいわゆる普通の人も自前の端末から投稿と配信ができる時代です)という形で、私たちは被害者、被災者、避難民の映像を目にしています。
*
逆に言うと、誰もが「見られる側」「映される側」「写される側(複製されて拡散される側」に転じる可能性のなかで生きているのです。
さらに言うなら、誰もが「移される側」に置かれる可能性のなかにいます。避難(難民としても含みます)や移送(生きて移送されるとは限りません)のことです。しかも、現在そのさまを見られ、映され、写される可能性は高いです。
する/される
「する/される」は表裏一体の関係にあると言えます。
どちらがどちらに転じてもおかしくないという意味です。この関係性が、この連載のテーマでもあります。
しているのに、じつはされている
しているのに、いつかされてしまっている
しているつもりが、気がつくとされてしまっている
している部分がある一方で、されている部分がある
傍観者、参観者
映画とテレビが登場し普及しはじめた頃を考えてみましょう。一方的に見る機会が急増したのではないでしょうか?
誰もが見る側になる(なれる)、なってしまう。
誰もが傍観者になる(なれる)、なってしまう。
「なってしまう」が適切な言い方だと私は思います。⇒ 「くり返すというよりも、くり返してしまう」
見る側にいるつもりが、見る側になってしまっている。
傍観者でいるつもりが、傍観者になってしまっている。
「……でいるつもり」と「……になってしまっている」との差は大きいと私は感じています。ふだんは差が感じ取れないくらいに大きいのです。
*
話をもどします。
映画の銀幕(スクリーン)、テレビの画面であれば、PCや各種の端末のようにネットでつながってはいないわけですから、隠れた双方向ではない、いわば純粋に「一方的に見る側」に身を置くことができるようになったと言えます。
もっとも、それ以前には、お芝居や見世物という「見るもの」があったことを忘れるわけにはいきませんが、同じ空間と場所を共有しての実演であれば、演じる者や見せられる者と見る者たちの間になんらかの交流があったと考えられます。
その場合には傍観でありながら参観の要素も強かったでしょう。傍観者と参観者との差を無視するわけにはいきません。
知る、知られる
「見る」を広く取ることもできそうです。
知る、とらえる、つかむ、把握する。
つまり、相手を見ることで、相手を知っている、相手を把握しているという気分になることです。
「一方的に見ている多数の人間」が、「一方的に見られているごく少数の人間」を知っていると感じる(錯覚する)事態が生まれたのです。
*
映画とテレビが普及して、スクリーンや画面で「見ている」だけの相手を誰もが「知っている」と勘違いするようになったとも言えます。会ったこともないのにです。これは錯覚にほかなりません。
一握りの俳優、スター、映画とテレビによく出てくる人、有名人。
大多数の普通の人たち、一般人、庶民。
この漠然と「(見て)知っている」という感覚が、現在では頂点に達しているのではないでしょうか。おそらくインターネットが拍車をかけた結果です。
*
この「(見て)知っている」という感覚は、固有名詞、とりわけ人名と地名だけで知っている相手や対象に、親しみを覚える、愛着するという気持ちときわめて近い気がします。
見て知っているだけ。
名前で知っているだけ。
これを「知っている」という言葉で代用するのです。代用するのは、みじめで恥ずかしいからでしょう。自分を見ているとそう感じます。
*
「○○、知っている?」「うん、知ってる知ってる。知らない人なんていないんじゃない? 超有名だよね」
「○○、知っている?」「うん、知っているよ。幼なじみなんだ。きのうも会ったし」
「○○、知っている?」「うん、よく知ってるよ」
「知っている」という言葉は紛らわしいですね。「知り合い」「知人」とか「○○のことを知っている」という言い方をつかえば、区別できそうですけど、あえて、そうしないでいることができるのです。
故意に「知っている」をつかって、人をだますこともできるにちがいありません。
複製、遠隔操作
文字、絵、写真、電話やラジオから聞こえる声、映画やテレビで見たり聞く映像や音声、ネットをとおして視聴する映像と音声。
こうしたものはすべて複製による産物(複製されたもの)であり、遠隔操作による現象です。この場合の遠隔操作には、空間的な「隔たり」だけでなく、時間の経過による「隔たり」も含まれます。
※なかでも、私たちにとって身近な文字が複製としてしか存在できないことは、驚くべき特性と言えます。そんな文字を私たちが日々使用していることにはさらに驚くべき事態であり、文字の出現は人類が出現して以来の大事件でさえあると思います。冗談ではなく。
*
telegram(文字・図)、telegraph(図)、television(映像)、telephone(音声)
ご存じのように、tele-は「遠い・遠く」という意味です。
遠くのものを近くして知覚する。
遠くのものを近くしたと錯覚する。
まだ、実現していない錯覚というか知覚は、テレパシー・telepathy(気持ち・感情)とテレキネシス・念力・telekinesis(動き・運動)くらいでしょうか。
知れる、痴れる
ネット上では、絵、図、文字、映像、音声の投稿・配信、複製、拡散、保存がほぼ一瞬に、ほぼ同時におこなわれています。
なんて書きましたが、私は見たことがありません。知識として知っているだけです。
いま「知っている」と書きましたが、「知っている」というのは、じつにいい加減なものです。たぶん知識というものがいい加減なのだろうとにらんでおります。
*
しる、しるし、しるべ。
マーキングや縄張りという言葉を連想しないではいられません。さらには、領地、領土、領域も思いうかびます。国語辞典や漢和辞典を参照しながら、漢字分けをしてみます。
しる、知る、領る、痴る、察る、識る。
辞書の語源の説明を読んでいると、「知る」と「自分のものにする」と「支配する」とがつながるらしいのですが、私はその連鎖(つながり)に果てしない人類の欲望のつらなりを見ないではいられません。
*
知れる、痴れる。
いま辞書で「知れる」と「痴れる」の語義を読んでいたのですが、意外と近い気がします。自分に当てはめると近いのです。
人は全知の神を装い演じることができるが、人の知りうることは知れている、人に知れていることは痴れている。
ここはどこ?
話をもどします。
ネット上では、絵、図、文字、映像、音声の投稿・配信、複製、拡散、保存がほぼ一瞬に、ほぼ同時におこなわれています。ここで注目したいのは「複製」です。
ネット上では誰もが複製を相手にしているし、自分もまた複製になるという意味です。
私もあなたも、ここでは複製なのです。
*
でも、ここってどこなのでしょう? いま、あなたと私のいる「ここ」のことです。
私には「ここ」が把握できていません。
以下の拙文「声に恋して悪いでしょうか」と「書いた言葉はどこに行く」は、いま述べた「ここ」についての違和感をテーマにした記事です。よろしければお読みください。
まとめ
今回は、私たちがいかに「一方的に見る」側と「一方的に聞く」側にいる生活を送っているか、同時にそうした側に身を置くことに嗜癖しているかを見てきました。
この「する/される」という連載では、川端康成の作品群を例に取って話を進めていきますが、連載を進める前に、これだけは言っておきたいと思っていることを述べました。
*
連載のタイトルを決めるにあたり、「する/される」にするか「人に動物を感じるとき」にするかで迷ったのですが、私のなかでは話を単に川端(さまざまなレッテルを貼られることの多い川端康成のことです)の小説だけにとどめたくない気持ちが強いのです。
次回は川端康成の作品を対象にしての「一方的に見る」、そして「一方的に聞く」話にもどります。
(つづく)