まばらにまだらに『杳子』を読む(09)
「彼」にとっての石ころ
『杳子』の「一」では、たぶん「石」という言葉が出てくるのは、二箇所だけです。見落としがあったら、ごめんなさい。
これは「一」では「岩」という言葉が頻出するのと対照的です。
かたくなにと言いたくなるほど、「岩」が多く「石」が少ないのですから、裏に何かあるのではないかと勘ぐりたくなるのが人情ではないでしょうか。
小説を読むことは謎解きではないにしてもです。
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よく見ると、「石」ではなく「石ころ」であるのに気づきます。「ころ」を見落とすのは、古井先生に失礼だと私は思ってしまいます。
石ころ、いしころ。
そう感じるのは、「石ころ」という言葉がかわいい響きと字面をもっているからかもしれません。言葉に対する、こういうたわいないとも言える心の動きを抑えて小説を読む気持ちは、私にはありません。
石ころ、いしころ、ころころ、ころがる、こころ。
こうやって言葉を転がすのが私の癖であり楽しみなのです。偶然にまかせます。言葉に必然に期待をもとめるのは人の傲慢だと思います。虫がよすぎるのです。
(『杳子』p.11『杳子・妻隠』新潮文庫所収、太文字は引用者による、以下同じ)
この「石ころ」は、視点的人物である「彼」が自分の幼い頃の記憶に重ねて、ケルンを見つめている杳子の印象を述べている部分です。「つぶやいた」とあるのですから、独白でしょう。
「岩」という言葉ばかりがある言葉の風景のなかで、いきなり「石ころ」が転がり出た感じがします。ころり、と。
ひょっとして、ぽろり、なのかもしれません。巧まずして出てしまったのではないかという意味です。こうした勘ぐりも読書では楽しいものです。
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《》は二重山括弧とも呼ばれている約物(やくもの)で、古井由吉の文章ではよくつかわれます。
ここも主語は「彼」ですが、このセンテンスの直前に「昏迷(こんめい)」という言葉で、女(杳子)の姿を見過ごしそうになる「彼」の行動を説明していますが、これは言い訳とも取れそうです。
心ここにあらずの心境なのでしょうか。私には不可解に思えます。
S、ヨウコさん、《ヨウコさん》
《》は、この作品の最後のほうで、きわめて大切な箇所でもちいられています。「七」の初めに出てきます。
この「異和感」は、作品のテーマとかかわっているという意味で興味深い箇所だと思います。一貫して「杳子」と記述されてきた名前が、ここで初めて「ヨウコさん」、しかももう一度「《ヨウコさん》」と二重山括弧でくくられて出てくるからです。
杳子の姉という、杳子と彼にとっての「異物」(きわめて大切な役割をになう第三者でもあります)が受話器から聞こえる声として介入する瞬間の「異和感」と言えるでしょう。言葉が異物として立ちあらわれる瞬間でもあります。
杳子、ヨウコ、《ヨウコ》
これまで表記されてきた杳子がヨウコとカタカナにされて生じる異物感、そして二重山括弧《》でくくられたさいの異化がもたらす異物感に、私の体は震えます。ゾクッとするです。それだけではありません。
彼、S
一貫して「彼」と記述されてきた視点的人物が、ここで初めてSと書かれることに、はっとしないではいられません。「S」は、のちに「Sさん」、「S君」という形で出てくることになります。
登場人物の名前と、作品内で登場人物をどう名指すかについては、今後の記事で触れる予定ですが、そのさいには、この件に触れた「異、違、移」と「「欠けている」と名指した欠ける」という記事内の該当箇所に加筆するつもりでいます。
話をもどします。
杳子にとっての石ころ
次に引用する文は、「一」の章で杳子の話が伝聞として記述されている箇所です。ただし、二人がのちになって「この時のことを思い返しあった」(p.14)ときの回想でもあることを言いそえておきます。
この谷底での二人の出会いをのちに回想している杳子の言葉という意味です。
杳子が「石ころ」と口にしたとも取れます。そう解するなら、「大きな石ころ」とは「岩」だと考えられます。
杳子が谷底で見つめていたケルンは、「彼」が見た「小さな岩」ではなく、彼女にとっては「石ころ」を積んだものだったと言えそうです。
「彼」の前で杳子が「石ころ」と口にする場面を想像すると微笑ましい気がします。
石ころ、いしころ、ころころ、ころがる、こころ。
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とはいうものの、「落ちようとひしめいていて、お互いに邪魔しあってようやく止まっている」というのですから尋常ではありません。
危うく脆(もろ)いのです。杳子の心がです。「落ちようとひしめいて」いるのは「石ころ」ではなく、おそらく彼女の心のほうなのです。
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ケルンだけでなく、谷底の河原にある「大きな石ころから小さな石ころまで」(杳子の言葉)=「岩」「小さな岩」(「彼」の視点からの記述)の内部にこもっている力が、どのように外にむかって働いていると杳子は感じているのでしょうか。
p.18からp.19の記述を見てみましょう。
・「ひしめいて」「ひしめき」(4箇所)
・「垂直の方向ばかり強くて」「垂直の方向をめざしていて」「空にむかって伸び上がろうとする力」
・「水平の方向がとても弱くて」「いまにも傾いて倒れそうに立っている」
石、あるいは岩にこもっていると杳子が感じている力は、同時に彼女の心のなかにこもっている緊張という意味での張りつめた力でもある気がします。
こもる、籠る、隠る。
こもっているものは隠れて見えません。杳子は感じ取っているのです。
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この小説の「一」では、「見」「目」「感」という文字がやたら出てきます。
「まばらにまだらに『杳子』を読む(08)」で述べたように、「見る」とか「目にする」のは、視点的人物である「彼」であり、「感じる」とか「感じ取る」のは杳子なのです。
もちろん「彼」も感じたり感じ取り、杳子も見たり目にしますし、両者とも聞いてもいます。とはいうものの、頻度という点では、「彼」は「見る」、杳子は「感じる」というのが基調です。
心、凝る、心指す
ここで再び遊んでみます。
石ころ、いしころ、ころころ、ころがる、こころ。
「こころ・心」を広辞苑で引くと、次のような語源の説明があって驚きます。
これを読んで、私はハート(心・heart)が心臓でもあることを連想しました。
「ここる」は「こごる」、煮凝りの「凝る」のようです。「こおる・凍る」ともつながるみたいですが、冷たさではなく固まるさまをあらわしているのでしょう。
石ころの「ころ」から「こころ」へと、ころころ転がしてきたわけですが、こういう飛躍だらけの連想が好きです。こじつけとも言います。
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言葉をいじると、たいていのものはつながります。言葉はつながるようにできているのです。人はつなげるために、言葉をつくったのですから。
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こる、こごる、凝る、凝、肩凝り、凝固、凝然、こおりつく、凍る、凝結、息を凝らす、目を凝らす、凝視、凝り性。
かたい石(岩)にともぶれして石化したかのような(ようするに、かたまっているのです)杳子の様子にからめると、上のような言葉が浮かびます。
(ともぶれとは、人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、人が相手や対象とともに「ふれる(振れる、震れる、触れる、狂れる)」ことです。ここでは、杳子は石(岩)にともぶれしています。「まばらにまだらに『杳子』を読む(05)」で詳しく説明していますので、よろしければご覧ください。)
とはいえ、「こころ・心」のイメージはそうした「かたまる」だけではありません。ほんわか、あたかかい(温かい、暖かい)、あつい(熱い、厚い、篤い)イメージもありますね。
また、固まるという動きだけに注目すると、真ん中に向かう方向性が感じられます。まさに中心ということになりそうです。
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ここでは普遍はめざしていません。言葉が呼びさましてくれるイメージを楽しんでいるだけです。私はわくわくぞくぞくするし、楽しいから『杳子』を読んでいます。
研究のためではありません。だいいち、研究者はこんな書き方はしないでしょう。いわゆる研究論文や学術論文のたぐいは読んでいないので想像するだけですが。
こころざす、志す、心指す
石ころの話にもどります。
上の杳子の様子にからめて、さらに修辞を弄して遊んでみましょう。
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こころ、こころざす、志す(志という漢字には心が見えます)、心指す、志向、指向。
こんなイメージなのですが、ようするに、ある方向へと向かって動くとか働きかける気配または予感なのです。そうした力を杳子は感じ取っているのではないでしょうか。
たとえば、「落ちようとひしめいていて、お互いに邪魔しあって」という箇所に、思考というよりも、むしろ力関係としての意志(志向・指向)――力の均衡(むしろ拮抗)した釣り合い、つまり緊張関係――を私は感じます。
また、「ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうと」には、垂直方向へむかう力を感じ、「力によって、内側から支えられている」には、その力が、うちに隠(こも)っているさまが描かれているようです。
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つまり、石を眺める杳子は、目に映る石の思い(意思・意味)ではなく、石にこも(隠)っている意志(心指す力)を感じとっていたと考えられるのです。
こもっている、籠っている、隠っている力は見えない。だから感じ取っている。この点がとても大切だと思います。
心の中心
こころざす、志す、心指す
志向性という意味での岩=石の力を感じ取っている杳子が、まるで心ここにあらず(心がお留守になっているという英語のabsent-mindedを連想します)といった書かれ方をしている点が気になります。
どうやら、石(岩)の志向や指向を感じ取っている最中ではなく、別の物について思考しはじめると、「自分の中心がつかめなくなった」らしいのです。
しこう、指向・志向、思考。
引用箇所は「思いはほんのしばらく宙に浮かんで、すぐに岩のひしめきにながされてしまい」(p.18)とも呼応するようです。
中心がつかめない、宙にうかぶ。
この心ここにあらず的な感覚が思いと思考について述べられている点が重要だと思います。志向性のある力の働きを感じ取っているさいの感覚ではないのです。
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この作品では「中心」という言葉が、思いや思考だけでなく、視野や「見る」行為と結びついていることは注目すべき点だと思います。
さらに言うと、ここでの「中心」という言葉は、志向性のある力の働きを感じ取っているさいの感覚とは関係がないらしい点も注目に値すると考えられます。焦点というより視点と近い気がします。
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まとめます。
中心:「思い・思考」と「視覚・見る」にかかわる。「志向性のある力」を感じ取る」とは関係ない。
この作品における「中心」とは、心の中心ではないでしょうか。mindのheartです。
心の中心(mindのheart)とは、視覚に支えられた思考の働く場である、いわば知的な心(mind)の中心(heart)――この場合のheartはあくまでも中心(核心)という位置であり「こころ・心情・気持ち」ではありません――という意味です。
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杳子がうわの空、つまり心ここにあらずの状態であるときには、思い(意味をとらえる知的な能力)は不在であっても、感情をとらえる気持ちという意味での「こころ」がお留守になっているわけではないのです。
杳子の「こころ・気持ち」は、石(岩)の心指す力(志向性のある力)――力の均衡(むしろ拮抗)した釣り合い、つまり緊張関係――を感じ取っているし、とらえているのではないでしょうか。
石(岩)に内在する、力の拮抗した釣り合い=緊張関係に、杳子がともぶれしている、つまり共振しているのです。その結果として、杳子の体も金縛りにあったように硬直しているし、その心は緊張していると言えるでしょう。
共振、ともぶれ。
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図式化すると、こうなります。
こころ・気持ち:感情・直感・直観・共振・ともぶれ。視覚や言葉にたよらず、気配を感じ取る。
精神・知性:認知・認識・理解・共振・ともぶれ。目で見て言語化し、その意味をとらえる。
そんな「感じ取る人」である杳子の心(視野)の中心に飛びこんできたのが、「見る人」である「彼」らしいのです。もしそうであれば興味深い展開だと思います。
「そのとたんに」とは、彼が《いるな》と思った杳子が、見つめようとしても、彼が「視野の中心にいきいきと浮かび上がってこない」で「彼女の心をすり抜けていった」直後に、その彼の視線を感じたときなのです。
一度は杳子の姿をみとめていながら立ち去ろうとしていた、不可解とも言える行動をとっていた彼が彼女に近づきかけて、「彼女の視線を受けてたじろぎ」、じつに奇妙で、これまた不可解な接近の仕方をします。
大切なのは、心ここにあらず的な状態(見ているようで見ていないのです)だった彼と、やはり放心状態にあった杳子(対象を見ているというよりも対象から感じ取っているのです)が、目と目を合わせ、たがいに相手を認めた(見留めた)、その身振りだと思います。
これは、見る人であった「彼」と、感じ取る人であった杳子が出会い、目と目を合わせることで杳子も見る人になった、という単純な話ではないだろう。そんな気がします。
彼を見る人とし、杳子を感じ取る人とするのであれば、彼がどのように見るのか、杳子がどのように感じ取るのかを、作品の細部を見て感じ取るべきなのです。
テーマを捏造して作品をさばいてみたり、図式化をして読解した気分になったところで、作品にはテーマや図式に抗う細部がかならずあります。そのことに意識的でありたいと思います。
引きつづき読んでいきます。
(つづく)