「私、きれい好きです」っていう人は、嘘つきであるのか?
あるネットのコミュニティに短期の滞在先を求める書き込みがあって、本人の写真も添付されていたのだが、最後に添えてあった「私、きれい好きです」という一文が引っかかってしまった。
写真の人物が自分の家の風呂場のタイル磨きや窓ふきなど(親任せで)生まれて一度もしたことがなさそうに見えてしまって(これはそう見えた俺に責任があるのでもし違っていたなら謝る)一言書きたくなったので「一般論」として書こうと思う。このコミュニティの書き込みの人に対するものではないことを断っておきます。
「私、きれい好きです」
っていう人は、嘘つきである。
とまでは(言いたいけど)言わないが、その日本語は間違って使われている可能性があることを指摘しておきたい。おそらく多くの場合間違いは無意識に行われており決してわざとではないだろう。ただ間違いは間違いであり、誤って伝えればウソということになる。
俺はシドニーに来てからこれまでに何十人もの人間とフラットメートになった経験からこのことを確信している。
「私はきれい(なところに居るのが)好きです」
わざわざ汚いところに居たいと願う人は特に日本人ならそうはいないはずだ。ゴミがウッ散らかったゴニョゴニョ変な虫が蠢いているところは殆どの人が好むまい。だからこれは事実と言っていいだろう。しかしだ。
「私は(自ら)きれい(に掃除をするのが)好きです」
ということになると、話は全然全く違ってくる。これはもう全然違ってくるのだ。全然だ。全然。
自分の使っている言葉の本質を勘違いしたまま使っている場合は往々にしてある。だが、自分が「きれい好きでいい人だ」と信じて疑っていないから質(タチ)が悪いのである。
ただ、いずれにせよ、相手に違った意味に取られれば嘘つきよばわりされて白い目で見られても甘んじて受けねばならぬ覚悟はしてほしい。
「自然」という言葉ある。
「自然の多い街づくり」とか「コンクリートジャングル(←昭和的表現!)の大都会より自然豊かな田舎が好き」とか、見たり聞いたり言ったりすることがあるだろう。が、こういうときの「自然」を「人工の加わっていない山野海沼=ネイチャー」という意味で使っているとすればちょっとおかしい。
草木が無秩序に生い茂り蛇やムカデや蜘蛛などがうようよいる場所をあなたは好むだろうか? 近所の公園が足の踏み場もないほど草ぼうぼうの生え放題で、植わっている木に大きなハチの巣なんてあったものなら管理組合?にすぐに電話をして「公園の手入れをしろ。」「害虫を駆除しろ」をクレームをつけるだろう。
日本人は”手を加えた”、いやもっと言えば”人の手が行き届き、見た目よく間に安全な”山野海沼が好きなのだ。日本庭園、枯山水、各地の観光地などみんなそうだ。
昔の日本語のネイチャーは「野」。「野草」「野鳥」「野獣」などには人の手が加わっていない。そしてあまりいい意味でも使わない。「野人」「野郎」「野蛮」「野卑」「野次」などどれもいい意味で使っているものはない。つまり「野」は好まれてはいなかったということがわかるだろう。
ではなぜ日本人が自然がいい、自然が好きだと言ってはばからないかと言えば、「自然」という熟語の意味が拡大したからだ。
元々「自然(しぜん)」は「流れのままに」という意味だった。「ずっと一緒にいたから自然に好きになった」「彼女、自然な笑顔がかわいいね」などなど。何事もスムーズな流れを好む日本人はこの意味の「自然(しぜん)」は大好きである。
が、この「自然」の二文字は「しぜん」ではなく「じねん」と読む場合があったこと、そして「じねん」と読んだ場合の意味が”天然”だったことが混乱の元だった。天然はネイチャーの元来の訳語である。
「自然」という熟語に二つあった「しぜん」と「じねん」という読み方から、時の流れとともに「じねん」という読み方が落ちていった結果、「しぜん」と読んでも天然の意味に解釈するようになり、「しぜん好き」と勘違いするようになったというわけなのであるのである。
なんでこんな話をだらだらとしてしまったのかは分からない。決して暇というわけではないのだ。話がいつものように長くなってしまったことを全く反省していないところが玉に瑕だが、とにかく無自覚のうちに言葉を誤って使うことがある、ということを証明したかったのだということを分かってほしい。
で、だ。「私はきれい好きです」とのたまう人間の話に戻す。
「私は(自らユニット内を)きれい(に掃除をするのが)好きです」という人は多くない。少ない、と言い切ってもいい。本当に少ない、くらいまで進めてもいいかもしれない。本当に本当にごく僅か、とまで言いたいくらいである。
いけしゃあしゃあと「私、きれい好きです」と言い放つ厚顔ぶりは罪に問えないものか?俺がゴジラなら口から炎を噴射して残らず焼いてあげたろう。
「私は(他の誰かが)きれい(に掃除をしてくれた場所に居るのが)好きです」
これが、大多数の、本当に多くの人の「私はきれい好きです」の真の意味なのである。
これ以上でも以下でもない。
変な勘繰りは不要でござる。