「翔べ! 鉄平」 エピローグ 28
退院し実家で療養をしながらも、歩く練習は緩慢になる。命があっても生きる気力を失ってしまい、世間を、日本を、世界を、傍観しながら虚脱感に包まれて漫然と日を送った。
原子爆弾が投下されたと言う話を聞いても、右の耳から入って左の耳から抜け、何も感じることができなくなっていた。ただ夜外を歩いて空を見上げると、あの日、炎に包まれ踊り狂う東京の街の光景が思い出されて、腹の底から細かい震えがこみ上げてきて、喉を締め付け、膝を萎えさせてしまう。
ラヂオから流れてくる大本営の発表を聞き、新聞で戦局の記事を読む。そのたびにあの日の光景を思い出す。思い出して眠れず悲しく悔しく心が沈んでいると、あの時の声が聞こえてくる。それを毎日繰り返した。
『もう大丈夫さ』
啓二はいつもあの時の鉄平の言葉に慰められる。
撃墜から三ヶ月が経ち、やっと松葉杖を置いて歩けるようになった。
そして三ヶ月後、日本はポツダム宣言を受諾した。
その暑い夏の日、啓二は蝉が黒い電柱に止まって鳴いているのを見つけた。沢山の蝉が黒い電柱に止まって、いつまでも、いつまでも鳴き続けているのである。啓二はその蝉の泣き声が無性に悲しく思えて、とうとう喉を震わせて泣いてしまった。止めることが出来なくて、そして今度は自分で、その蝉たちにそっと、鼻をすすって震えながら声を掛けてあげた。
「もう大丈夫さ」
******
1950年、GHQによって禁止されていた日本における航空事業が解禁になると、啓二は江田島時代の仲間に誘われて航空会社に勤めることになった。ただ本人の希望で飛行機には直接関係しない総務の方で働くことになった。
あの空襲のあった日、同じ空で仲間が死んで行ったという理由もあったが、飛行機を、仲間を見捨てたという意識が心の隅から消えていなかった。
飛行機に乗るのが怖いわけではない。ただ、自責として自分には飛行機を操縦する資格がないと思い込んでいた。
そうして戦争が終わってからと言うもの、啓二は特に口数が少なくなっていた。
終戦後、暫く時を置いて啓二と風子は結婚した。啓二はサイパンで戦死した鉄平への風子の思いを気遣い、気持ちが落ち着くまで三年ほど待ってから結婚したのだった。
結婚後は、彼らが生まれ育った町を出て東京の郊外に移り住んだ。二人の地元にいると、何かにつけて鉄平を思い出すため、お互い言葉で交わさなくとも二人で納得して東京に移り住んだ。
そしてお互いに鉄平のことは敢えて話をしないようにしていた。そして風子は鉄平から送られた軍隊の写真を箪笥の奥に仕舞った。
お互いに鉄平の話を避けていることが解り、それがお互いに冷たいのではないかという疑念さえ持つこともあった。
それでもお互いにそれを言い出さない。ただ時が経つにつれて、鉄平の思い出が薄れると供に、そうした疑念も薄れてくる。
するとある時突然それがお互いに憎らしいと思ってしまう。優しすぎると、相手を気遣いすぎて、踏み込めず、距離を置き、孤立してゆく。傷つきたくないから優しさという言葉で言い訳を用意する。
勤め人になって暫くすると、啓二は毎日朝六時には家を出て、帰宅はいつも夜十一時を過ぎる生活を送るようになっていた。何でもてきぱきと要領よくこなせ、根っからの軍人堅気が会社に忠誠心を呼び覚まし、自らに多くの仕事と課題を与えていく。
そんな毎日が二十年も続いた。
二人の子供を儲けたが、仕事ばかりで日々の生活の中では話す機会などそれほど多くはなかった。
鉄平に言わせれば、啓二はたぶん申し分の無い夫であろう。毎日同じことが繰り返される日々を幸せに感じる男で、風子もそれを幸せに感じる主婦になっていた。周囲の人たちと同じように、冷蔵庫に感動し、洗濯機の前で水の渦を見守り、自動車に夢を見出す。
そして次の夢を追う。
ある日、啓二が地方の飛行場整備のための視察に行った時だった。
関東北部の小さな飛行場は滑走路も短く訓練中のセスナや農薬散布などの飛行機が長閑に発着していた。管制塔はなく三階建ての建物で兼用されていた。
啓二がその管制と作業や事務室を兼ね備えた建物から出るとき、出入り口で一枚のポスターが目に留まった。同僚たちはどんどん車に乗り込んでしまうが、啓二はそのポスターの写真に釘付けになってしまった。
『パラシュート・クラブ』
アメリカで撮った写真であろう、空中で円陣を組む人たちの下方、地上にはグランド・キャニオンが見える。
写っている人たちの目の輝きがなんてすがすがしいのだろう。
どんな辛く悲しく暗い時代でも、取り巻く状況をものともせず、若者は情熱を傾けることを知っている。
戦争に加担してしまったとか、止めることができなかったとか、その善悪は未来が決めることだ。
今、その時を、情熱をもって生きる若者は後の評価などに関心を置かない。無垢な熱い風は人を輝かせる。しかし人々は社会の生み出す人の生きる価値など、ありもしない意味に囚われて邁進し、人を流し翻弄する。
時代がそれを押し流してしまおうとしても、その情熱は何時の時代にも現れる。そして現れては消え、また現れる。無垢な暑い風は必ずどこかで吹いている。
同期の龍宮に連れられてサイパンへ行く前にあの小隊を訪問した時も、鉄平やその仲間たちの表情には情熱が漲っていた。
啓二自身が情熱を傾けた飛行機の空にもそれがあった。鴨志田の声が聞こえてくる。
『子供の頃の夢って、こんなんじゃなかった』
『中尉殿! まっすぐ上です!』
そうして啓二は空を見上げた。そこには子供の頃と変わらない空があった。
「猪俣さん!」
誰かが呼んだ。現に帰った啓二のすぐ横で建物に入ろうとしていた青年がその声に振り向いた。
「今日は三組だったね。最初のは三回目の降下だから高度6千フィートからからだな。そのあと1万フィートが二組」
「じゃぁ、二時までに用意しておきます」
「ああ、頼むよ」
啓二はその二人の会話を聞いてパラシュートのことだと思った。ポスターの写真を見ると、そこに写っている一人の男は丸型の軽そうなヘルメットにゴーグルを着け白い歯をむき出して笑っている。それが鉄平の笑顔と重なった。
「すみません。クラブに入りたいのですが……」
啓二はとっさに猪俣と呼ばれた青年に声を掛けた。
つづく