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🎵【聴くクラシック音楽入門】Vol.21~大都市ロンドンで成功を収めた国際的な作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのお話し~


前回は、ギネスブックに認定されたゲオルク・フィリップ・テレマンについてのお話しをしました🎵


テレマンが生まれてから4年後ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel ( 1685年2月23日 - 1759年4月14日)が誕生します。

今回は、大都市ロンドンで成功を収めた国際的な作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルについてのお話しです✨🎵


stand.fmにてお話しもしております🐼🐰


日本では、ドイツ風に「ヘンデル」と呼ばれていますが、イギリスに帰化した事から「ハンデル」「ハンドル」と呼ぶべきと言う人もいるようです。

職業は作曲家、オルガニスト。

1 ハレ・ハンブルク時代 (1685年~1706年)
2 イタリア時代(1706年~1710年)
3 ロンドンへ(1710年~)
4 オラトリオと晩年


1 ハレ・ハンブルク時代 (1685年~1706年)

1685年 ドイツ中部の都市ハレで生まれる。父は外科医。

1702年ハレの大学入学、父の意思により法律の勉強をするが、翌03年にハンブルクに移住、音楽家を目指す。

1705年ハンブルクで最初の歌劇『アルミーラ』を上演。大成功をおさめる。

「アルミーラ」抜粋動画です✨


2 イタリア時代(1706年~1710年)

1706年イタリアへ行き、3年間にオペラ2つとカンタータ100曲あまりを作曲。イタリアのオペラ様式を学ぶ。

1708年オラトリオ『復活』を上演。大成功。

「復活」抜粋動画です💡


1710年  ヴェネツィアにいたときに、ドイツのハノーファー選帝候に宮廷楽長にならないかと誘われ、一旦ドイツに帰る。

3 ロンドンへ(1710年~)

1710年、25歳のヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、ハノーファーには落ち着かず、1710年暮れにロンドンへ。

ここで書かれたオペラ『リナルド』が1711年2月14日初演され、15回の上演を数える大成功となった。

「リナルド」全曲  2:34:03💡


6月にオペラのシーズンが終わるとハノーファーに戻った。

💡ハノーファーよりも大都市であったロンドン。当時、ハノーファーでオペラの上演が出来なかったけれど、ロンドンでは可能。公開コンサートも盛んであり、作曲家や演奏者に対する報酬が高かった。

翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着いた。

1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った。

1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れている。

ロンドンに戻った後の1717年には『水上の音楽』が演奏された。

そして1727年正式にイギリスに帰化。

💡何がきっかけで帰化したのかは分かっていませんが、名前もジョージ・フリデリック・ハンデル(George frederick handel、セカンドネームのスペルは3種類ありますが、ここでは良く使われているこれを用います)と改名しました。

4 オラトリオと晩年

1732年『エステル』以来、英語のオラトリオをいくつか上演している。

1742年オラトリオ『メサイア』初演

1759年74歳で死去。ウエストミンスター寺院に埋葬。


このように、ドイツで生まれたヘンデルは、イタリアやイギリスを飛び回り、幾つもの作品を大成功に収めた国際的な作曲家です🎵


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