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龍造寺隆信最期の地、沖田畷古戦場跡と二本木神社 [長崎県島原市]
(2020年10月訪問)
長崎県島原市の北門町を通る度に目にしていた「沖田畷古戦場跡」という案内板、沖田畷?古戦場?と疑問に思いながらも、特に誰かに聞いたり、調べようともしなかった幼かった頃の私。
この北門町の辺り一帯がかつて「沖田畷」と呼ばれていて、もっと言うと、江戸時代には北門町という場所が、かつて島原城の北門があった場所であったことすらも知らなかったくらいに郷土史に無縁だった私。
で、そんな私が、ふとしたことから、城巡りを始め、そこから日本史に興味を持ち始めたところで、この「沖田畷古戦場跡」がどういった場所だったのかを知る。
この地一帯を収めていたのはキリシタン大名の有馬晴信で、龍造寺隆信に従属していたのだが、「もうこいつについて行けない」ってことで島津側に擦り寄っていく。で、そんな有馬晴信を征討すべく、龍造寺が大軍率いて島原半島にやってくるってことで、有馬晴信は島津に援軍要請した。
龍造寺軍vs有馬+島津連合軍がこの沖田畷で戦った。圧倒的に数で不利だった有馬+島津連合軍が龍造寺隆信の首を取って勝利した。
というのが沖田畷の戦いである。(かなりざっくりした説明だが)
かつて、この場所は胸までつかるほどの湿地帯でその中を細い一本道が通っているだけだったが、今はそれを全く感じさせないほどに町が整備されている。
昔から気になっていた古戦場跡の看板の案内通りに進むと、
自動車整備工場の裏にひっそりと龍造寺隆信の供養塔がある。
この投稿を書いている時点(2024/5)で、この供養塔が移設されたとのことだ。
移設された場所は、龍造寺隆信の供養塔があった場所から100-200m離れたところにある二本木神社だ。( 島原へ向かう列車の中からも見える。)
二本木神社は龍造寺隆信を失った家臣で、この地に住み着いた人達が隆信の戦死をいたみ、その霊を慰めようと小祠を建て、霊を祀ったとのことだ。
むしろ、供養塔もここに移設されて良かったのかもしれない。
沖田畷の戦いについては、以下の記録を読むと、当時の様子、特に戦が起こる前の九州の情勢、戦い、戦後処理の様子が克明に綴られていて興味深い。
こちらは島津側の視点で。
書いた本人は戦に戦っていないので、勝利した時にどのように伝わってきたのか、また戦後処理で赴いているので、その様子などが興味深い。
こちらは有馬側の宣教師の視点で。
自分のご先祖様はこの戦いには関係していたのだろうか、まだまだ先祖調査はここまで辿り着いていない。
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