「声・音・楽」の三段階

先日から、宮城谷昌光氏の「史記の風景」という本を読んでいるのだが、そこの中に、音楽について書かれた部分が二箇所ほどあった。

「歌うということ」「童謡の正体」という内容なのだが。

これに非常に面白いことが書いてあって、以前から自分が研究していた「老子」や「詩経」の「毛序」の中の記述と合わせると、音楽というものに対する考え方、というものが、こちらの方が個人的にはしっくりくるなぁ、という感じがした。

で、宮城谷氏も、あれこれ古今の書籍を引用しながら、「史記」の中の世界について見解を披露しているわけだが、

さて、司馬遷は、「楽書」のなかで、声、音、楽を次のように説明している。

「音が起こるのは、人の心より生ずるのである。人の心が動くのは、物がそうしむけるのである。物に感じて人の心が動けば、それが声になってあらわれる。声がほかの声と応ずれば、変化が生ずる。変化が方を為した時、これを音という。」

変化が方をなす、というのはわかりにくいが、南朝の裴駰が著した『集解』では、鄭玄の説を引き、

----方はなお文章のごとし。

とあるから、方は綾ということであろう。

宮城谷昌光「史記の風景」より「歌うということ」抜粋

そうそう。

今に残る「詩経(毛詩)」の「毛序」にもこれに類することが書いてあって「人の感情が感極まって、声になって出てくる」となっているのだが、つまり、声というのは、心の中に生じた志(或いは気持ち)が、何かの形を取って、外に出てくる事なのである。

つまり、楽器だろうが、人間の話し言葉だろうが、それはとりあえず声を上げた、という風に考えてもよろしかろうと思う。

つまりは、これまでの言い方では、それを「声」と言わずに、楽器に限定してる時だけ「音」と言って、人間が喋る言葉だけを「声」と言ってる。

だからこそ、とりあえず何か楽器の「音」が鳴っていれば「音楽」だっていう勘違いになってる気がする。

でも、これを「声・音・楽」の三段階で説明すると、全てが綺麗にきっちり言葉にできるんだよなぁ。

バイオリンを弾いたら、とりあえず、それは「声」

綺麗なものだろうが、きたなかろうが、それは、とりあえず「声」
つまり「音」ではなくて「声」

例えば、怒り狂って、ピアノをとりあえず、はちゃめちゃに手あたり次第に鳴らしただけだとする。それは、まだ「声の段階」なのだと考えればよいと思う。怒りで絶叫するのも、ピアノでハチャメチャに鳴らすのも、ある一つの気持ちが形になって声を上げた、ということだ。

これを、私は「糸の状態」という風に考えた。
要は、楽器が一つの状態で、何の秩序や方向性も持っていない場合、それは、単なる糸のようなものなのだ。

単なる糸も、方向性を向けて秩序を持たせれば布のように見える不思議。

今までは、それさえも、音、と言ってたからこそ、勘違いが生まれるである。つまり、感極まって「ああ、何か、怒りたくなるようなことはあったのだな」ということであり。

それが他の声と出会ったときに、変化が生ずる。他の楽器であったり、人の声だったりね。

その時に、ぶつかり合って持ち味を殺しあう事もあれば、どちらかが、どちらかに打ち消されて消えてしまう場合もある。ないしは、その双方が消失する場合も、ごく稀だが発生する。

それを「共鳴」や「干渉」による、声の「変化」と考えてみれば合点はいくと思う。

これは物理現象としてもそうだし、その音を放つ物体、あるいはプレイヤー同士の人間と人間との関係としても言えることだと思う。バンドを組む、なんていうのは、まさに「声と声が出会ったこと」による「変化」でもある。

で、それが、ある一定の「方向性」を持った時に、初めて「音」に変わるのだという。それが、宮城谷氏は「綾をなす」という表現を使っているが、鄭玄の注記に従えば、例えば、それは、楽器を調整して、調律とか音階を整えて、整然とした状態を整えること、の方が意味が合うのではないかと考える

音楽による世界体系を作るための第一歩、と考えればいいのではないか。
だから、ある一つの法則で、声を調和させるように操ること、すなわち、そこで、単なる声が音に変わるということだろう。

それは、糸を、一つの布地に仕立て上げるという行為と、僕は考えた。

デニムの端切れ。糸が整然と方向を為している。

まあ、うまいプレイヤーは、いろんな「声」をだせるけど、だからって、それが、ただ、何となく寄り集まって演奏したところで、方向性を持たないで音を鳴らせば「バンドに見えてるだけの烏合の衆」でしかない、というわけだ。

「いいバンドかどうかは違う」というのは、まさにこのことではないだろうか。つまり、ただの超絶ソリストの集合体であろうと、一つの方向や秩序が無いものは「楽」にはならない、と。

ていうのは、まあ、実は、この先「音を秩序立ててならべ・・・」という風なくだりがあり、ただの「音」が「楽」に変わるための条件、というものも書いてあるわけだが。

よく「音 を 楽しむから音楽と言う」という風に最近言う人が増えたが、実は「楽」というものは、「楽しむ」ではなく「ひとつのきちんとした舞曲を為す」ということなのである。で、♪通り弾いたからといって、それが「曲」としてOKかどうか、っていうのは、まったくもって違うのだろう。

舞曲、というのは、踊ってしまいたくなるような音、ということだ。

ていうのは、聞く人のほうが、あまりの感動に感極まって声を上げ、手を打ち、足を鳴らし、それでも足りずに「体を動かしだす」というのが感情の発露の究極行動だということが、ベースに存在している。

最低限、聞く人の感情を理屈ぬきに揺さぶるものでなければ、それは「楽」ではないと考えればよいのではないか。

で、いちおう漢字としての「楽」ってものはどういうものか。これは、神様への祈りを捧げて賑やかに奏する時に楽器を用いた事を象徴的に表現したものらしい。だから楽しい気持ちになる、というのにも繋がっているのだが。

とはいえ、楽しい気分とか楽(らく)が、意味の先にあるものではない。楽しくなくても、怒りでも、哀しみでも、いたたまれなくて体は動くのだ。

じゃ、こう書けば、いいのか、というと。

プレイヤーとプレイヤーが、ただ一緒に弾いただけ、っていうのは、この段階で、ようやく最低限「音」であって、まだ「楽」ではない。
1+1 = 2

で、どっちかが相手の持ち味を殺す演奏って言うのは
1+1 = 1

で、どっちも台無し、ってパターン。
1+1 <= 0

マイナスまで行ってたら、聞く人や周囲の人たちにまで迷惑がかかってる、ってこと。

で、少なくとも「楽(バンド)」として成立するっていうのは
1+1 = 2+α

になってないと、話にならないわけであって、この段階で、初めて、これまででいう「きちんとした音楽」に変わる、ということなのである。

だから、バンドのことを「楽団」って言う。で、ただ、意味も無くプレイヤーが並んでいるだけのものは「楽団」でなく「音団」というべきなのではないか。で、神レベルのバンドになると、αの数がとんでもなくなるだけ、というだけだろう。

楽ということは、すなわち、幾つもの布地を使って、服に仕立て上げるという事。つまり、体系や秩序があって、複数の音が並ぶ場合にこそ、初めて楽の完成となる。単なる布切れが、ジーンズやデニムジャケットになるようなものだ。

布地のカッティング+縫製 = 演奏  色味+色落ちの風合い=音色 と考えれば?

声=糸
音=布
楽=服

ううむ、ようやくきっちり説明できるようになった気がする。
さすが、中国古典は、奥が深いのう。

ついでに、もうひとつ紹介すると、

うたに、ついて白川静著の『字訓』を見ると、「歌」と「謡」のふたつの字があげられている。うたうということが神へ訴えることだとすれば、その字は歌でなく謡をつかうほうが正しいようである。では歌はなにかといえば、「訴えたことを神は実現してくださらないではないか」、と神をとがめるふくみが大きい。

宮城谷昌光「史記の風景」より「童謡の正体」抜粋

ほほう。

「感謝」ばっかだけでなく、やはり「天への怒り」というものもあってこそ、はじめて「歌謡」なのだねぇ。

やはり、何か、どこかで、変な勝手な解釈が紛れ込んでいるとしか思えないんだよなぁ。特に、日本が、西洋音楽を取り込んでいく段階で、なにかいびつな解釈が紛れ込んでるとしか思えないというか・・・。

・・・あるいは、それは「商業性」によって歪められたものなのか。

面白いねぇ。しばらくは、もう少し、中国古典での「音楽の定義」ってものを遡ってみるか。

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