The Cure / Songs of a Lost World 雑感
これは、私と、他のThe Cureの日本ファンたちで主催する The Cure イベントでのトークでもずっと喋っていた事なんだが。
正直、このアルバムが出ることに対しては、凄く複雑な心境しかない。
というのは、どう考えても、このアルバムは「Pornography」「Disintegration」「Bloodflowers」の3部作の系譜に位置するアルバムであり、ある種、The Cureの真骨頂でもある作品なのだが、素直に喜ぶことができない。
だって、この曲、私が訳した通りだ。死の別れについて、滅びについて、老いについて。これほど赤裸々に歌われた曲は無い。
ずっと、この曲を、もう2年か3年近く聞かされていて。
新曲をこれほど入念にライブでこなれさせてから、レコーディングするなんて、私のMusu Bore のアルバムみたいな事をやらかすとは思わなかった。
何か、本当の別れを告げようとしてるんじゃないか。解散を意図してるんじゃないか。ずっと、その事は繰り返し言っていた。Xのポストでも、イベントのトークでも。
「もう、僕の世界は老いてしまった」
この曲を最初聞いた時、私は正直泣いたよ。こんな鮮やかに、自分の老境を赤裸々に告白して、それでいて、何度も優しく言い聞かせるように別れの名残を惜しむみたいなライブを、アルバム出すまでずっと続けてくれた優しいミュージシャンがいるものかね。
このアルバム出して、いきなり明日「解散します」って言われてみたらと想像したらいい。世界中のファンがひっくり返って、泣きわめき、パニックになるだろう。
「やめないでくれ」
「まだやれるだろう」
それこそ、阿鼻叫喚の沙汰になるに違いない。それを、3年もかけて「僕ら、もうそろそろ、解散するよ。惜しいけど、別れの時は近いんだ。」とか、ひたすら語り掛けて、ライブでまで丁寧に新曲をやっていた、あの優しさって、他のどのバンドが過去やれたんだんだろう。
商業主義のバンドのいつものアルバム販売のプロセスじゃないだろうに、あれは。何年もThe Cureの動向をつぶさに追いかけてきた、私の周りにいて下さったThe Cureファンの方なら、よく分かるだろう。これだけ、ライブで散々聞かされてきた曲を、今更のようにアルバムで出されても、正直、あのライブの何分の一も、このアルバムの中に収めることはできていない。
やっぱりライブ聞かなきゃ。そんな気にさせられる、世界最高峰のライブミュージシャンでもあるのだ。
The Cure の最大の特徴、卓越した技量ってのは、本来なら単調で単純なはずのミニマリズムを飽きさせないという事だ。
ループサウンドの妙味と言ってもいいと思うんだけど。
例えば、それって、イントロや平歌だけでも数分間引っ張って飽きさせないだけの魅力とも言える。
というのは、3コード進行の
Ⅰ→Ⅳ→Ⅰ→Ⅳ
を繰り返したって、別にそこからストーリーなど生まれるはずなどない。
言ってしまえば、4コマ漫画の
起→承→起→承
を繰り返すようなものだと思えばいい。物事が始まって、何かがあって、また最初に戻って、何かがあって。いつまでたっても話が先に進まないどころか、堂々巡りを繰り返している訳で。
若手バンドが同じ「単調なひっぱり」をやってても、まずイラつくほどに単調だったりする。次の展開はどうなる?みたいな期待を持たせるほどの力がない。だから、次々とコードを切り替えないと、退屈で聞いていられないという事になる。そこが演奏力やアレンジ力の底の浅さだったり、即興演奏で旋律を紡ぐみたいなことができていないってこと、でもあると考えている。
というのは、そういう目線での訓練を行っていないというのもあるだろう。
展開を動かすという事は、必然、ドラマティックな展開にはなる。だが、全ての音楽は常にドラマティックであらねばいけないのか?という話だったりする。
ネガティブな歌の時には、ネガティブなストーリー展開がある。
そうした表現の綾に対しての考察が無いのが、実は一番の問題なのかもしれない。売れるための商業音楽が派手であるというそうした商業主義に毒され過ぎた認識はあるのかもしれないのだが、余りにそれに毒され過ぎていて、一番シンプルなことが分かっていない。
それは、みんなしてやったら、ドラマティックどころか、全員揃って似たようなことしかできない単調な表現に陥るという事への考察が足りてないのだろう。
実は、コード的に単調な展開の中で、それだけで演奏を引っ張っていけるほどの妙味が無いから、あっという間に手数が足りなくなるのだという事に気づけないのだろう。それは、次の展開に期待させるほどの力は無いのである。いちいち、その先を期待するまでもないとなってしまう。
言わば、この辺の矛盾する駆け引きみたいなものが、きちんと音楽をビジネスとして成立させているバンドの演奏の卓越さだという事に気づけていない人が増えたのだと思う。
イントロや平歌なんてものは、さほどドラマティックでもないはず。なのに、そこに次の展開を期待させ、予感させる、或いはそこにつながる期待をどこかに持たせてしまったり。あるいは、ネガティブなストーリーを音楽で奏でるにしても、その退屈な展開の中でも、どこかに飽きさせないための「惹き」の工夫を随所に凝らしている、という事まで観察できていないのだと思う。
それが、ある種の緊張感なのか、メロディの卓越さなのか、歌でのムードのこしらえ方なのか、音色(おんしょく)の妙味なのか、それらの複数を交えての事なのかは、それぞれのバンドや楽曲によっても違いはあるが。
The Cure は、この辺の駆け引きについては、初期の楽曲で徹底的に計算しながら、演奏を組み立てていたのではないかと思われるんだよな。何となくやってたのではないのだろう。
それが同時代に出てきたポストパンクのバンドたちと一線を画して、今なお現役を保っていられるだけのオーディエンスへの説得力を手に入れた原動力なのだと思っている。
少ない音数を如何に効果的なところに配置して活用するかを計算して、少ない手数で演奏を組み立てる、そういったサウンドのアプローチを随分と長いことやっていたのを思い出す。往年のレコードレビューでは「調和解体志向」と言われていた(この言葉がネット上にはまったく見受けられないのが、ネットの問題だったりしてね)
おそらく1980年代の初頭にはSeventeen SecondsやFaithで、それを達成していたと思う。
そこを派手な展開を好みがちな日本人が、それが拙さの故、不勉強だと勝手に決めつけて、ミニマリズムや調和解体志向の本質を、全く理解していなかったのだろうと思う。
今回の、The Cureの最新アルバム”Songs of a Lost World”は、その80年代の初頭から、彼らが磨き上げてきた少ないコード進行で、如何に美しい楽曲をこしらえるか、という長い長い挑戦と研鑽の結実を感じる。
実際、目新しいことなど何も使っていない。気を衒うコード展開はそこにはない。
むしろ、ロックやポップスで使われてきた使い古された進行を使っても、まだここまで音楽は美しく響くのか、という事を鮮やかに形にしてみせただけである。
なのに、一歩間違えば、単なるアナクロニズムにも受け取られかねないことをやらかして、全米、全英、全仏をはじめとする数々のチャートで1位をもぎ取ってしまう。これって現代の偉業だと思う。
その偉業に対して、世界中が評価するのは当たり前のことだ。音楽は終わったなどと言われるこの時代、使い古されたものだけを使って、珠玉の作品を紡ぐという一番難しい挑戦に挑み、それを形にして見せた。
無様な若者たちを置き去りに。
言わずにはいられない。喪われた世界の歌などと言うタイトルをつけつつ、彼らは永遠を手に入れたのだ。
私は、彼らを10代の頃から聞いた。
彼らの音は、常にいい意味で私の期待を裏切ってくれた。私の期待以上のものを常に提示してくれていた。
このバンドをずっと好きでいてよかったと思う。彼らとともに40年近い道のりを歩んでこれたことを誇りに思う。
ありがとう。この時代に、この、素朴な響きなのに、豊饒な響きを持った音を聞けたことに対して。アーティストという胡散臭い言葉を尊ぶ人たちをしり目に。
40年以上、ライブと演奏の腕だけでたたき上げた、世界頂点のライブミュージシャンの矜持ともいえる音を提示してくれたことに。