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本の感想51『閉ざされた言語・日本語の世界』鈴木孝夫


◯なぜ日本人は海外の人の前ではタジタジしてしまうのか?なぜ相手に合わせてカタコトになるのか?
◯日本人は見知らぬ人間と顔見知りの人間に対して、全然違った接し方をすること(海外は初対面の人でも馴染みの人でもあまり接し方が変わらない。)
◯日本は年上を敬う文化なのはなぜか?

というようなことが少し理解できたのでまとめておく。いやはや、言語というものはよくよく観察してみるとほんとに文化が見えてくるもんなんだね。

相手の立場から自己を見出す日本人

ここに、ある学校の先生Aがいる。年齢は28歳、妻と一人の子供、大学生の弟がいる。他に近しい親類には別居する兄と両親がいる。さて、Aは自分の呼び名(話し手が自分を表す一人称)をいくつ持ってるだろう?少し考えてみてほしい。

自分の子供に対しては「おとうさん」
弟に対する時は「にいさん」
妻と話す時は「おれ」
父や兄に対しては「ぼく」
近所の子や親戚の子供たちには「おじさん」
学校では生徒に対して「先生」
校長や上司に対しては「私」

と、少なくとも7個あることがわかる。このAなる人物は、話の相手が誰で、自分に対してどんな地位、資格を持っているかを見極めた上で、相手やその場に最も適切な言葉選びをしている。Aに限らず多くの人がそうであろう。

これはつまり、相手の性質が、自分自身を言語的に把握する角度に直接反映されているともいえる。「自分は何者であるか?」ということが、「相手は誰か?」に依存する構造になっている。自己把握が相対的なのだ。

ほかに、会話の中の一人称で、兄、父、先生といった敬称しか使われないのに注目してみる。たしかに、弟は兄に対して「弟にアメちょうだい」とはふつう言わない。逆に先生、課長、にいちゃん、兄上などと目上の人を呼ぶ時に地位名や職名を呼ぶのは当たり前になっている。あるいは目上の人に対して「あなた」や、名前呼びはしない。

これは、言語によって自然と年長を敬う文化が形成されていることになる。

文化が先で、それに伴って言語が形成されたと普通思うかもしれない。でも考えてみよう。生まれたばかりの赤ちゃんに「文化」なるものはもともと備わっていない。言語によって彼(または彼女)の世界は徐々に型にはめられていくのだ。

絶対的な視点で自己を把握する西欧

これに対して、イギリス、ドイツ、フランスなどの言語では、話し手が自己を言語的に表現する角度は一定不変だ。

これは日本が相対的な自己把握、自己表現なのに対して、欧州は絶対的な自己を把握するという視点だ。

自己を把握するのに、「相手から見た自分は?」という認識よりも、絶対的な視点で自身を捉えている。私の立場は他人どうこうではなく私なのだ、というニュアンス。(海外では場の空気を重んじる、というのが倫理的に正義なわけではないのはこのせいかも知れない。)

日本人の人間関係の構造

日本は面白いことに、相手の立場からの自己規定、自己の確立ということを行う。自分を具体的に把握するためには、相手ありきということになる。この仕組みが、社会学者が日本人の特性として「他人指向型」で「大勢順応主義」と指摘する所以でもある。他の人の出方が分からないうちには、自分の立場や意思が決定できないのである。あぁなるほど、と肯ける。

だから我々日本人は、人間関係における自己の座標を決定するためには、相手が誰であって、その人が自分に対して上か下か?のような相手の位置づけが先決条件となってくる。

そんな私たちに対して、外国人はこういったものの手がかりを一切与えてくれない。結果として、不安定な状況に置かれることになる、ということだ。相手のカタコトな日本語に合わせて自身の日本語がギクシャクするのも、この「相手と同調しなければ安定しないような弱い自我の構造」がよく現れている。

ただ、これは悪いことばかりではなくて、このために日本人は具体的な状況に応じてその時その時で最も効率よい解決を見いだせたりもする。一貫した独自の主義方針でどこまでもそれを貫き、独断専行的な西欧式とは良い対象だ。



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