本の感想5『もの食う話』文春文庫
まえがき
この本は、「食べる」ということがテーマの短編を集めたものだ。
永井荷風、大岡昇平、筒井康隆などの文豪たちがそれぞれの角度から食に対してアプローチしている。
食べることは奥が深い。性欲や好奇心に深く関係してたり、神秘的な表現をする人もいれば、忌み嫌うものだという人もいる。
誰もが人生の中で幾度も体験し、逃れることはできない「食べる」という行為。
知能、理性を持った人間にとっては、時には生存本能以上の意味をも持つこともある。
気になった考察を紹介していこう。
心に別の欲望があると、食欲が薄くなる(大岡昇平)
大岡昇平は戦時中の体験も踏まえて、中年や老人が食意地が汚いと考察している。それはなぜか?
上の年代が、戦争中の飢餓的な生活を切り抜けてきたため、食に対する渇きが強いということもあるだろう。だがそれ以上に、青年たちの心には「青春」という心を大きく占める別の欲望があるからだといっている。
中年にはすでにそれがない、あっても弱い。彼らの注意がもう一つの重要な欲望である食欲に向かうのはこのためだ、と。
今の時代はどうだろう?特別親世代が食意地が悪いとか思ったことないけどなぁ。大岡昇平は「3大欲求は、他の欲求の強さとは比例せず、何かが強くなると他が弱くなる」という考え方らしい。
話は変わり、食欲が異常性を帯びていた友人と、ある少佐の話が出てくる。
2人は、戦時中では驚くほど冷静であったという。
友人に関して例を挙げると、敵襲かもしれないと周りが死におびえている中、一人だけ砂糖をなめに行ったりとか、甘納豆をポケットにしまいこむ余裕を見せたりという行動をしたという。
「学校に遅刻しそう、でもご飯は食べたい」レベルならまだしも、彼らの状況下では本当に死の10分前かもしれないのだ。
食い意地が張りすぎていると片づけてしまえばそうかもしれないが、彼らは食欲によって一種の恐怖心やそこからくるストレスから逃れているとも言える。
食物に対する異常な関心が、暗い未来を考える余裕を与えず、あの平静な態度を与えたと考えざるを得ない。と、考察されている。
その2人は、職務に関しては人一倍忠実であったらしい。少佐がマラリアの広まった分隊を慰めて回るとき、心からの同情の響きがこもっていたと周りは証言する。
「そこには何ら形式的なものも、軍人風の空虚な激励もなかった」「一般社会におけると同じ礼儀と思いやりがあった。」「戦時中からしたら、彼のような本来とるべき態度が異常ではあった。」
一種の、食という一つの信じるところがあったため、軍隊というシステムの考え方、周りからの押し付けに侵されなかったのかもしれない。
食は広州にあり(邱永漢)
中国には、「おはよう」にあたる言葉はあるが、「こんにちは」や「こんばんは」はないらしい。
その代わりに、「吃了飯嗎?」(ご飯はお済ですか?)という意味のあいさつをする。
この起源として、一昔前はロクにご飯が食べられなかったからそんな挨拶になったという説がある。しかし真相は、中国人が食べることばっかを考えてきたからではないかと作者は考察する。
昔から中国で言い古されている言葉に、
「生在蘇州、衣在杭州、食在広州、死在柳州」というのがある。
注目するのは「食在広州(食は広州にあり)」だ。
広州(広東省の首都広州)では食べ物の種類が多いだけでなく、それらが皆おいしいというところから始まっている。世界で、この土地ほど食べ物の種類があるところはないほどだという。
猫、犬、蛇、鼠からげんごろう虫まで、人間の口に入れて害のないものはことごとく食膳に供される。蛇は、とくにホルモン的効果を狙ったものが多く、昔の、美女を多く抱える偉い人がコックに作らせたのが蛇料理の始まりだという。
ハブとかがよく精力剤に使われているが、発見したのは中国。また、げんごろう虫は場所によってはみんなポリポリと当たり前に食べているという。
絶世の美女がげんごろう虫を食べていたら、キスと拒絶のどちらを選ぶだろう笑
ありとあらゆるものを食べるということに関しては経験値となっていいと思う。ものの概念を崩すことができる。今までペットとして、あるいは害虫として見ていたものが、そうでなくなる。もしや国による考え方の違いは食べ物からきているかもしれない。
美食とは?澁澤龍彦(しぶさわたつひこ)
美食学、エロティシズム。
これらは、必要を快楽に変えるための技術(学問)である。
人間だれしも食べるが、ただ胃袋の必要を満たすために食べていたら動物と変わらず、美食とは何の関係もない。
ただ単に性的欲望を満たすために交わる場合もそうだ。エロティシズムが成立するためには想像力が関与しなければならないし、反省的機能が働かなくてはいけない。美食においてもそうだ。
それらは、文明が成熟してくると極端を目指すようになり、奇怪な道を行くこともある。
おわりに
ほかにも、食人種の話や、ビスケットの話、よく食べる女の話などとにかくいろいろな角度から食が語られていた。
今の時代はお金を出せば、古今東西どこの食べ物に出会うことができる。
少なくとも、極度に食べることに困るということはなりえないような時代だ。ただ過去はそうでないことが当たり前だった。
だから過去の人は「食べる」ことに対して特別のありがたみや、神秘を感じ取った。真摯に向き合っていたといえるだろう。
それが一番いいというわけでもないし、別にご飯に困りたくもない。ただ、毎日行う「食べる」という行為を、無為に過ごすのはもったいないと思った。
今回のnoteで、「食べるという行為」に1つでも考えが増えたなら嬉しい。